天正十年三月、武田逍遙軒信綱降參しけるを、信忠森武藏守長可に下知して殺されたり。長可各務兵庫元正を使とし武前采女を添へたり。信綱刀を膝下に置きて離たず。各務武前行き向ひて、武藏守が愛する馬の候。慰に見給はんや、と言へば、庭に出づる處を、元正二尺六寸有りける雲次の刀にて一太刀斬りたりしに、信綱小脇差を抽く處を、采女續いて切り伏せたり。小姓河野と言ふ者信綱の刀を持ち居たりしが、卽ち抽いて采女を切る。兩士遂に河野をも討ち止めたり。元正鎗を合せ首を取る事二十一。茲年高遠の城攻めにも、狹間より覗ひ見て群りたる眞中へ飛び入り倒れたるが、起上りて散々に切り合ひ首を取りけるが、鷄尾の棒の指物指して傍を拂ふ有樣を信忠見て、誰と問ふ。長可、我家の士各務兵庫と申す者なり、と言へば、誠に今日の見物なり、と言はれしとぞ。