東照宮濱松に御座しませし比、或夜本多正信御前に有りしに、誰人にてかありけん姓名を知らず懷より書を取出し、諫め奉るべしと兼てより存ずる事の候て書き候ものなり、と申せば、大に悅ばせ給ひ、夫讀め、と仰せ有りければ、披きて讀みけるに、一條讀み終る度每に領かせ給ひ、尤なり、と仰せられ、讀み終りければ、汝が志感ずるに詞なし、之より後も心置無く告げよ。返す返すも神妙なり、と繰返し仰せければ、忝き由申して退出す。正信居殘りて、只今諫め申せし事川ふべき1事に候はず、と申す。東照宮大に氣色變らせ給ひ、否とよ。己が過は知ずして過ぐるものなり。國を領し人を治むる身には、過を告げ知らせ諫むる者は鮮くて、唯詔ひて2主君の言ふ事道に違ひても、さは候はじと詞を返す人は無きぞかし。諫を防ぎし人の國を失ひ身を亡し、後世の笑ひ草となりし例多し。只今我を諫めし者、日比心を盡し見及ぶ樣に附き、諫めんと思ひて書き記し、時も有らば見せんと思ひ居たりし志、何に譬へん樣なし。其の用ふべきと用ふべからぬとには依らざるなり。唯彼が忠心を愛するなり、とぞ仰せける。又或夜の御物語に、凡そ主君を諫むる者の志、軍に先駈するよりも大に踰勝れり。其故は、戰に臨みて一番に進み出づるは、素より身を捨てての事なれども、必ずしも討死せず。又討たれたりとても後の世に名を殘し、死後の譽となるぞかし。幸に功名を遂ぐれば、恩賞にて家富み子孫榮ゆるなり。されば得有りて失無き忠なり。諫は然らず。主君不道にて善を憎むに進み出て直言する者、十に九つは刑罰に逢ひ、妻子を亡し果つる樣に成行くぞかし。失有りて得なき忠なり。武功は名利の爲にもなるべし。諫言は聊も身の爲を思ふ心有らば、爭で主君の前にて直言すべき。唯人に君たる者の賞すべきは諫臣なり、とぞ仰せ有りける。
- 誤植川ふべき — 底本「川」。「用」の誤植か(「用」の横画欠け)。
- 誤植詔ひて — 底本「詔」。振り仮名「へつら」から「諂」の誤植か。