台德院殿は殊に禮儀正しく御座しまし、苟にも疾言御座しまさず。事無き時は泥塑人の如くになん、と人申せしが、極めて下民に御心を盡させ給ひ、孝道深く御座しましけり。又信を失ひては天下は保ち難し、と常に仰せられ、御鷹狩に出給ふ時も時を定められ、御膳の半にも辰の鼓を打てば箸を捨てて出給ふ。近習の人奉膳終らざれば辰の太鼓を打たず。井伊直孝是を聞き、近習の人々に向ひ、是君を愛すると思へるは大なる僻事にてこそあれ。君正しき道を好み給はば、汝達も正しき道にて仕へられよ。斯樣に事を料られなば、必ず阿諛をなして寵愛を好するにも及ぶべし。疾く膳を奉りて鼓の前に終りなんに、何の苦しき事やある。是等は誠に小事なれども、君を欺くとも言ふべし。君子は禍を未然に防ぐものなり、と戒められけり。