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○井伊直孝直諫の事

卷之二十 第3話 · 段落 2 · NDL 1078984 315コマ R

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台德院殿諸大名を召し、土井大炊頭利勝を以て、來年嗣君に世を讓らせ給ふべき旨仰せ出されしかば、皆祝し奉りたる處に、井伊直孝默然として有りしかば、利勝側に招き、如何なる事ぞ、と問ふに、天下亂の本たりと存ずれば、目出度事とは存じも寄らず、と申す。子細は如何に、と問ふ。されば其事に候。大坂の亂幾程なく江戶石壁の營み、日光の土木、天下の諸大名以の外に困窮せり。又世を讓らせ給ひなば諸大名獻上奉る物に費多く、將軍宣下の饗禮を取行ふべし。愈困窮に及び、下を剝ぎ民を苦むるの外更に詮方無からん。是民の嘆亂の因と存ずるなり、と申されしかば、利勝、尤なり。此旨有の儘に申すべし、とて直孝を御次の間に伴ひ、利勝御前に參りて、云云の由申したりければ、卽ち直孝を御前に召され、汝が申す所尤なり。され共旣に仰出されたれば易難し。猶是より後憚る所無く申せ、と仰せられしかば、直孝、臣が申す旨然るべからずと思召し候により、聞し召し入れられず候か。臣が言尤と思召しなば、御用ひなからん事仰とも覺え候はず、と申されけるに、暫く御詞無かりければ、利勝、臣旣に年老いぬ。壯年の者直言を申し候事治世長久の因に候。明日諸大名を召し、掃部頭申旨尤なるに依り、相止めらるべき由を仰せ有りて然るべう候ものを、と申されければ、台德院殿則ち諫に從はせ給ひけり。其時直孝、臣が申す旨用ひさせ給ひ、辱き旨謝し奉りて退出せらけれり1。台德院殿の諫に從はせ給ひし事、直孝の直言美を盡せり、と人申しけり。
  1. 誤植 — 底本「せらけれり」。「せられけり」の活字の順序の誤りか。
又一說に、台德院殿世上太平と雖も、嗣君未だ幼穉に御座します。總廓を築かるべし、と仰せ出されしに、直孝一人兎角の詞無かりしかば、各退出の後、如何なる故ぞ、と問はせ給ふに、仰の旨心得難く候。嗣君幼穉に御座しませ共、治平の時なれば一廓滅せられ候てこそ人々安堵致すべけれ。嗣君幼穉により廓を增されなば、人々危む心を生ぜん事必然なり。且御上京も候て過分の財用を費し、五三年も儉約ならざれば償ひ難く有るべきに、又費を多くなしたらんには、廓は堅固に成り候とも武備有るまじく候、と申されければ、翌日諸大名を召し、掃部頭申す旨尤なるにより、昨日の仰せ出されは相輟めらるゝの由を、仰せ出されたりと言へり。孰か是なる事を知らず。