明石掃部頭全登大坂に籠りしが、落城の後討死しけるや落行きたるや定ならず。明石が士澤原孫太郞一說に孫右衞門を生捕りて明石が行方を問はるゝに、知らず、といふ。さらばとて拷問に及びけれ共更に言はず。あまりに嚴しく責められて淚を流しければ、行方を言ふにこそあれ、とて、如何に、と問ふに、澤原言ひけるは、關東の兩御所の運强く御座しまし候を感じ奉りての事に候。士たる程の者骨を刻まるゝとも、主君の行方を申すべきや。此度大坂軍に勝たば、兩御所落行かせ給ふべし。其時御邊達を搦めて、今我を責められ候如くならば、主君の行方をも白狀すべき心なればこそ、斯く我を責めらるゝならめと思ひて、覺えず淚の流るゝ、と申しければ、人々詞無かりけり。東照宮聞し召し、類無き忠義の士なり。能く勞り候へ、とて御赦有りけるとぞ。今細川の家に其子孫あり。又池田の家にもあり。澤原は備前磐梨郡の村名なり。孫太郞が一族此村より出でたりといふ。掃部が居城の跡、備前和氣郡和氣村の東の山上にあり。