信玄嫡子義信と不和の起り、川中島合戰の時、義信は旗本組の右備なり。然るに夜半に謙信犀川を越えて近々と備へ、無二の合戰を持ちて懸られたるを見て、旗本備義信を遣り、信玄は義信の備處旗本組の右備に居られたるに、謙信、信玄の旗本備義信を切崩し、義信も數ヶ所手を負はれ、此處に信玄居られざる故、信玄の居られたる右備へ切つて懸り、信玄の床机に居られたるを太刀にて切られたるを、信玄團にて受けられ、側より中間頭原大隅鎗にて突きたるに突外し、謙信の馬の三頭を招き、馬走り出て退れたる故、討外したるとなり。此合戰以後義信は、强敵の謙信無二の戰を持たれたる故、旗本備居ては其身の危きを以て、常々不和なるを以て義信を旗本備へ、床机を替へ、捨殺にせんとの工なると思はれ、父信玄を怨み、遂に飯富兵部が勸めによつて叛逆有りて、信玄怒り、義信を切腹せしめられたり、と上泉義鄕の咄なりとなり。其證據には甲陽軍鑑に、此合戰に信玄の旗本備崩れ、信玄は何所に御坐なさるやら不㆑知、混亂したる所へ、謙信太刀を拔き持つて信玄の床机に居られたるを切られ、信玄團を以て受けられたると有るは、信玄と義信と床机を替へられたる證據見えたり。法令嚴なる信玄旗本の備に於て、御坐所知れざると云ふ程の事あるまじきなり。