大坂夏陣、五月七日天王寺口へ秀賴の瓢簞の御馬印出かゝりたる時、關東方に秀賴の御馬出、眞田左衞門佐先手にて切懸るといふ風說あるといなや、關東方の惣軍何の分ちもなく、崩立ち諸手悉く崩れたるが、追ふともなく大敗軍となり、井伊家士小笠原傳兵衞三百石嫡子と若黨と以上三人にて、直孝の赤根の四半に、金の井の字の馬印を捨てて北げたるを取りて押立てたるを見て、總軍共に、やれ掃部頭殿の人勢が返したるは、と言うて銘々に取りて返し、鎭りて終に御勝利となりたるとなり。小笠原後に加增にて取立てられたるとなり。右の敗軍の時、銘々にやれ返せ〱、と云ひながら北げたるとなり。何の分ちもなく北げたるに、何とも爲べきやう無きものなり、と義鄕の咄なり。右の馬印を立てるを見て惣軍返したるを見て、破軍星の尾返が合ひたる、と云ひたるとなり。此敗軍の時、兩御所樣の御旗本大崩にて、家康公も度々御腹を召されんとありたるを、御近習大久保彥左衞門等止められたるとなり。後々まで家康公御武功の御物語ある時は、此の御敗軍の時已に御腹召されんとあるを度々御諫め申して、御腹召されず、終に天下の御主となし奉る、と大久保申されたるとなり。