三河物語本文データベース

目次 › 三河物語第二中 › m2.006

義元の尾張出陣と元康の棒山攻め編集見出し

6 · 830字 ·編集段落

扨又義元、尾張之國得出馬之時、次郞三郞元康も御供被成而御立有。義元者駿河、遠江、三河、三ヶ國之人數をもよをして、駿府を打立而、其日藤枝に付。先手之衆は島田、金谷、仁坂、懸河に付、明ければ藤枝を立而懸河に付、先手者原河、袋井、見付、池田に付、明ければ懸河を立而引間に付、諸勢は本坂と今切ゑ兩手にわけて押而出て、御油赤坂に而出合けり。義元者引間を立而吉田に付、先手は下地之御位、小坂井、國、御油、赤坂に陣取、吉田を立而岡崎に付。諸勢者屋萩、鵜等、今村、牛田、八橋、池鯉鮒に陣之取、明ければ義元池鯉鮒に付給ふ。此以前寄くつ懸、鳴海、大高をば取而持たれば、くつ懸之城には駿河衆入番有り。鳴海之城をば岡部之五郞兵衞が居たり。大高には鵜殿長勿番手に居たり。信長寄大高には取出を取而、棒山の取出を佐間大角と申者が勿而、明ずして居たりしを、永祿三年庚申五月十九日に、義元は池りう寄段々に押而大高ゑ行、棒山之取出をつく〲と巡見して、諸大名を寄而良久敷評定をして、さらば責取。其儀ならば元康責給得と有ければ、元寄踸殿なれば卽押寄而責給ひければ、程無たまらずして佐間は切て出けるが、運も盡きずや、打もらされて落而行。家の子郞從どもをば悉打取。其時松平善四郞殿、筧又藏、其外之衆も打死をしたり。其寄大高之城に兵らう米多籠。其上に而又長評定の有けり、其內に信長者淸須寄人數をくり出給ふ。評定には鵜殿長勿を早長々の番をさせ而有り。誰を替にか置んとて、誰か是かと云內、良久敷誰とても無。さらば元康を置申せとて、次郞三郞樣を置奉り而引のく處に、信長者思ひの儘に懸付給ふ。駿河衆是を見而、石河六左衞門と申者を哽1出しける。彼六左衞門と申者は、大剛の者に而、伊田合戰之時も面を十文字に切はられ、頸を半分切れ、身の內につゞきたる處も無、疵を持たる者成を哽2而云けるは、此敵は武者を勿たるか、又もた去かと云。各々の仰に不㆑及、あれ程若やぎ而見えたる敵の、武者を勿ぬ事哉候はん歟。敵は武者を一ばい勿たりと申。
  1. 誤植 — 底本「哽」(振り仮名「よび」)。「喚」の誤植か。
  2. 誤植 — 底本「哽」(振り仮名「よび」)。「喚」の誤植か。