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義元の討死と岡部五郎兵衛の忠義編集見出し

7 · 826字 ·編集段落

然者敵之人數は何程可㆑有ぞ。敵之人數は內ばを取而五千も可㆑有と云。其時各䇻て云、何とて五千者可㆑有ぞと云。其時六左衞門打䇻而云、方々達は人數のつもりは無㆓御存知㆒と見えたり。かさに有敵を下寄見上而見時は、少數をも太勢に見物成に有。敵をかさ寄見おろして見れば、太勢をも少勢に見物にて候。方々達のつもりには、何として五千寄內と被仰候哉、惣別か樣之處の長評定者、能事は出來せ去物にて候に、棒山を責歟責間敷歟との評定久敷、又城之替番の詮義久敷候間、ふつゝと能事有間敷と申つるにたがはず、是得押寄給ふと其儘、取あゑずに棒山を責落させ給ひ而、番手を早く入歸給ひ而、引かせ給はでかなはざる處を、餘りにをもくれ而、手ねばく候間、ふつゝと能事有間敷、早々被㆑歸せ給得と、六左衞門申ければ、急早めて行處に、步行者は早五人三人づつ山得あがるを見而、我先にと退く。義元は其をばしり給ずして、辨當をつかはせ給ひて、ゆく〱として御給ひし處に、車軸の雨がふり懸る處に、永祿三年庚申五月十九日に、信長三千斗に而切而懸らせ給得者、我も〱と敗軍しければ、義元をば毛利新助方が場もさらさせずして打取、松井を初として拾人餘、枕を幷打死をしけり。其外敗軍して追打に成、其儘押つめ給はゞ駿河迄も取給はんずれども、信長は强みを押させられ給去人なれば、其寄淸須得引入給ふ。然ると申に、元康の屑除を被成候物ならば、か程の事は有間敷に、大高の城之番手を申被㆑付し事社、義元の運命成。岡部之五郞兵衞は、義元打死被成、其故屝懸之入番衆も落行供、鳴海之城を持固而、其故信長を引請而、一責々られて其上にて、降參して城を渡し、あまつさえ信長得申義元之しるして申請而、駿河得御供申而下けり。御死骸を取置申而、御しるし斗之御供申而下事、たぐいすく無とも申つくしがたし。此五郞兵衞を昔之事のごとくに作ならば、武邊と言侍之義理と云、普代之主の奉公と云、異國はしらず、本朝には有難し。尾張之國寄東において、岡部之五郞兵衞をしらざる者は無。