然處に、各々申上けるは、此以前寄一番陣を仰被㆑付只今家康得、一番陣を被成候得との御諚之處、迷惑仕候と申上ければ、信長御腹を立給ひ、大成御聲を被成、推參成忰どもめが、何をしりて云ぞと仰ければ、重而音を出事ならざれば、家康之一番陣に定ける。家康之仰には、明日廿八日之合戰に、今日廿七日に、是得着而一番陣を請取事、天道のあたへ成と被仰、御喜悅かぎり無。元龜元年庚午六月廿八日の曙に、押出たま得ば、越前衆も、三萬餘に而押出す。信長之一萬餘、家康之人數三千餘に而互に押出而、北風南風攻㦴處に、家康之御手寄、切くづして追討に打取給得ば、信長之御手は、旗本近く迄切被立、各々爰はの衆が打れけれども、家康之御前が勝而、おくへ切入給得ば、敵も卽敗軍して、不㆑殘打取給ひ而、今日之合戰は、家康之御手がら故、天下之譽を取と、信長も御感成。信長其寄、此方彼方押つめさせたまふならば、近江之儀は申に不㆑及、越前迄も切取せ給はんに、惣別信長は勝而、鋹之緖をしめよとて、其儘岐阜へ引入給ふ。桶狹間の合戰にも、義元をば打取給ふ故、其寄無㆑𠉧璅物ならば、⿱𠆢久に三河、遠江、駿河迄納させ給はん。此時もをけばさまより淸須得引入給ふ。然ども終には近江も、越前も、三河、遠江、駿河も御手には入たれども、勝而鋹の緖をしめよとて、其きをいを以てつよみをば、おさせられたまぬ御方成。