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志賀の陣と松平勘四郎の手柄編集見出し

27 · 1,170字 ·編集段落

然間元龜元年庚午十二月日、越前衆三萬餘に而、比叡に陣取而有。信長は志賀に御陣を取り給ひ而、家康ゑ御加勢之由仰被越ければ、石河日向守を指つかはさる。北國は早雪もつもりたる事なれば、兵粮米も盡き可申。然者敵を干し害べしと信長は思召處に、比叡山寄兵粮米をつゞけ申のみならず、賸歸り調儀をして信長を打せんとす。山寄申越たるは、越前衆之陣屋得火を懸可㆑申候。然時んば切而懸らせ給へば敗軍可㆑有。其儀ならば夜中に山得あがらせ給得と申けれども、信長さすが之弓取なれば、聊爾に山得あがらせ給はずして、坂本迄押寄而、火之手があがらば偣べきとて、ひかゑさせ給ひし處に、案之ごとく歸りてうぎ成。然間越前衆は三萬餘有、殊更に近江之國は大方越前之領分なれば、岐阜への道も塞れば、信長纔一萬之內なればかなはじとてあつかひをかけさせ給ひ、天下は朝倉殿持給得、我は二度望み無と起請を書給ひ而、無事を作り而岐阜へ引給ふ。扨又引入給ひ而、をつ付而切而上らせ給ふ處に、又家康寄御加勢を被成けり。其時は松平勘四郞殿に諸家中寄人を面々に出合而付而立給ふ。然處に信長は見つくり之城を攻させ給ふに更に落ず。然者此小城にかゝり而、日を盡して詮も無。是は先指置而都得切而のぼらんとて、城をまきほぐして搦手之衆引のくを、松平勘四郞殿是を見給ひ而、大手之方寄責入給得ば、卽からめ手得落行ば城得亂入。松平勘四郞殿手柄覺え云に不及。然間都得入せ給得ば、亂取に小田之上野守殿の者と、三河之者が出合而、ふるゑぼしを奪合ひ而、上野守殿の者を三河之者がしたゝかに打ければ、それが喧嘩に成而、美濃尾張之衆が一つに成而、松平勘四郞殿得偣程に、何れも三河衆が無㆓是非㆒とて悉町得出て、弓鐵炮鑓をかまゑ而居たる處得、偣程に引請而打立ければ、中々あたりゑ寄付ん事は思ひ寄ずして、信長得比由1申ければ、信長聞召言語道斷とゞかざる事を申者ども哉、家康寄加勢を賴而、其加勢を打害法や有物か。れうじをしたるやつばら在ば、一々に成敗せんと仰ければ、偣者どもはちり〲に成而見得ざりけり。扨又信長勘四郞を召而仰けるは、勘四郞今度みつくりにおい而、手柄ひるゐ無處に、又此度之喧嘩扨々ひるい無。勘四郞は背はちひさけれ共、肝のをうき成者なり、いやいや勘四郞は熨斗づけをさして有間、此度之陣をばつゞけられべきぞやと仰けり。勘四郞ためには面目成。然處に信長之仰に、天下之公方も朝倉は引請申事もならざるを、某が岐阜へ喚越申而、二度天下之公方となし奉り申たる、其情をも忘而賸朝倉と一身して、我に敵をなし給ふ事恩を知給はねば腹を切せ申度存ずれども、公方にて御ませば徐置申と而都を除給ふ。其時に比叡山も長袖の身として歸りちやうぎをして我を打んとしける間、さらば山を立間敷と仰有而、其寄も久敷ゑい山はくづれ而、久敷たゝざるを、又家康之御取立被成而、今者山が立。
  1. 誤植 — 底本「比由」。「此由」の誤植か。