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見付原の退却と勘七郎の鉄砲編集見出し

1 · 982字 ·部の始め

然る所に元龜三年壬申之年、信玄寄申被越けるは、天りうの河をきりて切とらせ給へ。河東は某が切取可申と相定申處に、大炊河ぎりと仰候儀は、一圓に心得不申。然者手出を可仕とて、申之年信玄は遠江へ御出馬有而、來原西島に陣取たまへば、濱松寄もかけ出して見付の原へ出て、來原西島を見る所に、敵方是を見ておつ取〱のりかけければ、各々申けるは、見付の町に火をかけてのく物ならば、敵方案內をしるべからずとて、火をかけてのきけるに、案之外に案內をよくしりて、上のだいへかけあげ而乘付ける程に、頓而ひとことの坂之おり立にてのり付けるに、梅津はしきりのり付られ而ならざれば、がん石をこそのりおろしける。其時大久保勘七郞は、とつて歸し而てつぽうを打けるに、一二間にて打はづす。其時上樣之御諚には、勘七郞は何として打はづして有ぞと被仰ける時、其儀にて御座候ふ。都筑藤一郞が弓をもちて罷有によつて、其をちからと仕候て放し申つる。纔一二間ならでは御座有間敷、定而くすりはかゝり可申、兎角と申內に我等が臆病ゆへに、打はづし申たると申上ければ、藤一申は、勘七郞が立とゞまりて打申故に、我等は了簡なくして罷有つると申ければ、兄之大久保次右衞門が申は、藤一左樣に御取合は被申そ、御身を力とせずんば、せがれが何とて立とゞまらん哉。方々の故に有つるぞと申せば、御方之弓ゆがけをはづし給ふを見て、我も馬ゆがけをはづしたると申せば、藤一申は次右左樣にはなし、坂のおりくちにて、御身の馬ゆがけをはづし給ふを見て、我等も弓ゆがけをはづしたると申せば、いや〱御身の弓ゆがけをはづしたるに心付、我もゆがけをはづしたと申ば、上樣は御笑はせ給ひ而、其儀はまづおけ、勘七郞汝があやかりと云にはあらず、見付の臺寄おひ立られ而のきたる間、せいきのせきあげたる處に、定而汝はてつぽうを中程に、手をかけて火ざらのしたを取而放したるか、御意のごとく左樣に仕申と申上ければ、左樣に可有、中程に手をかけて火ざらの下をもちてはなせば、引息にては筒さきがあがり、出る息にてはつゝさきがさがる物成、殊更つねの時とおひ立られし時のいきは、かわる物にて有間、はづれたるも道理成、汝がおくびやうと云處にはあらず、何時も左樣成時は諸手ながら、引がねの下をもちて打物成、何といきをあらくつきたり共、つゝさきはくるはざる物にて有ぞ、以來は其心もち可有と御意成。