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太閤の死と家康襲撃の企て編集見出し

48 · 1,009字 ·底本の改行

然間文祿元年壬辰に高麗陣とて、太閤の御馬も名護屋に立ける。家康の御馬も名護屋に立ける。諸勢は高麗國へ立けり。辰の年御出馬有て、午の年の八月御歸國なる。然るあひだ其後に關白殿御むほんの由仰被出て聚樂の城を取出、高野山へおくり奉りて御腹を被成けり。其後御手かけの女房衆あまた三條がはらへ引出て、かうべをはねて一つあなに取入て畜生塚と名を付てつきこめ給ふ。然る處に太閤は慶長三年戊戌八月十八日に御年六十三にして朝の露ときへさせ給ふ。然共各々寄合給ひて七歲に成給ふ秀賴を寵愛有ける。中にも內大臣家康を太閤の賴奉らせ給へば、取わけての御てうあひ成ける。然る處に各々諸大名衆寄合て內府の御仕置なれば我々の存分にあらずと思ひて、諸大名一身して家康へ御腹を切せ申さんと申合ける處に、伏見より大阪へ御見舞にうつらせ給ふ時、よき時分と心得たる處に、此由を藤堂佐渡が心得て、今夜は先我等所に御座可有由申上て、我所にて用心きびしくし奉りける處に、伏見にのこる御普代の大名小名夜がけにしてかけ付ければ、早成間敷と思ひて知らず顏していたれば、城へいらせられ給ひて秀賴にたいめん被成て伏見へかへらせ給ふ。然共此儀思ひとゞまらずして、又伏見にて早大方敵味方見へわかつて有樣に有りけれ共、取かくる事はならざる所に、大阪より加賀大納言遲し速しと來らせ給ひて、兎角に向島へうつらせ給へと仰ければ、むかひ島へうつらせ給ふ。其よりこと〲く氣をちがへて我も〱と申わけして、後には石田治部少輔一人に掛けて、後には寄合て治部に腹を切せんとする處に、家康御慈悲におはしましければ、各々治部をゆるし給へと被仰けれ共、各々きかざれば、其儀ならば石田は先さお山へ引入て可有由を仰被出けれ共、道へ押かけて腹を切せんと各々申由を聞召て、然者中納言おくれと御意の出ければ、越前中納言樣の送らせ給へば、相違なく石田はさお山へ行ていたりけり。然共治部少輔は此御おんをかたじけなきとはおもわずして、心中には謀叛のたくむ事計なり。然間會津の景勝は國へ暇申てくだりけるが、其後召共來らず。其儀ならば打取らんとて、家康の向わせられ給へば、北國、中國、四國、九國、五畿內、關東、出羽、奧州迄殘所なくあひづ陣へぞ立ける。然間都を立て、先陣はなす野の原へ押出せば、後陣は未尾張、三河、遠江、駿河をおすも有り。古河、くりはし、小山、宇都宮に陣の取、古河には家康の御旗が立、宇都宮には將軍樣の御旗が立。