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将軍の中山道遅参と本多佐渡編集見出し

51 · 596字 ·編集段落

然る所に將軍樣は宇都宮より御立被成、中道にかゝらせ給ひて押て上らせ給ひける處に、さなだが城へとをりがけに打よせさせ給ひける。將軍樣御年二十二の御事なれば、御若く御座被成候につきて、本田佐渡をつけさせたまひて御供させたまふ。なにかの儀をもおの〱にまかせずして、佐渡一人して指引をしたりける。佐渡がさなだにたぶらかされて、我はの顏して五三日日をおくりける。何事も各々は佐渡次第と被申て罷在間、佐渡がはからひも隼の指引こそよくも可有、武邊のしたる儀は一代に一度もなければ何かよからんや。然間二三日もおそく付せ給ふ。何時も何事に付ても、其道々にえたる者に指引をばさせてならでは、事のゆくべきにあらず。佐渡が我があしくしたるとはいわずして、後にはしらずがほしていたれ共、何事も皆佐渡が妨なり。其時繰引をしたり、是も佐渡がかうしやぶりにてくり引をして、後には我が利口に云けれ共、人々は佐渡がくり引とてわらひける。くり引と云事はあれ共、つひにくり引に合たる者はなくして、佐渡がをしへてはじめて各々もくり引に合たり。くり引に不及、敵が城より出たらば、おつ取〱おひ入て付入に城をとらんとはおもはで、さても〱佐渡はくり引はしたり。さて又さを山にて先ぜいに追付せ給ひ、其より伏見へ移らせ給ひて、押て大阪へうつらせ給ひけり。秀賴に腹を切せ給ふかと各々存知ければ、御じひなる上樣にて、歸て後には將軍樣の婿殿に被成ける。