然る間慶長十九年甲寅之年秀賴諸國のらう人を抱へ、分銅をくづして竹をわりてそれへ鑄流して、竹ながしと名付てらう人共にとりくれて、十萬餘ふちせられると家康聞召て、其儀ならば秀賴の御ふくろを江戶へ下給へと仰つかはされけれ共、思ひ不寄と御返事有ければ、其儀におひては國をも可進に、大阪をあげて國入をし給へと被仰けれ共、其儀も思ひ不寄とていよ〱諸らう人をかゝへてふしんをして、てつぽうをみがき矢の根をみがくと聞召て、其儀ならばべつしんかと被仰ける。秀賴もりの片桐市之正異見の申けるは、なにかと被仰候御時分にあらず、兎角に何と成共家康の御意次第に御したがい被成て、御ふくろ樣を江戶へ御越被成て御尤と申上げれば、大野修理、同主馬之助、同道けん、さなだ左馬助、明石掃部、其外のらう人共が寄合て申けるは、莵角に御ふくろさまを江戶へ御越被成候儀はいらざる御事に候。市之正は家康のかたんを申候へば、市之正を御せいばいあれと申に付て、市之正はすいたへ引のけける。さては謀叛におひてうたがひなしとて、東は出羽、奧州、關東八ヶ國、東海道、五畿內、西は中國、四國、九國、北は加賀、越前、能登、越中、越後、日本に殘無所大阪へ押寄せける處に、大阪よりは河內攝津國の、堤をきりて水をはゞませ、道をあしくしたりければ、家康、秀忠、御親子樣は都を御出馬あつて、諸せいは奈良口をほうりう寺、だうめう寺、平野へ出させ給ひて、相國樣は住吉に御陣の取せ給ふ。大將軍樣は平野に御陣を取せ給ひて、岡山へ御陣を取よせ給へば、相國樣はすみ吉より天王寺へ御陣のよせさせ給ひて、ちやうす山に御陣の取せ給へば、諸ぜいは城を取まく。然所に城よりは、天ま、せんば、野田、福島、かわ田が城迄指出てもつ。然所に蜂須賀阿波守、かわだが城へ押寄てたゝかいけれ共、取事のならざれば、石河主殿頭橫矢にかゝりきび敷せり合て、ふかきゑ河を脇立頭立にてとび入〱越て、攻かゝりければ、たまらずしてあけてせんばへ引入處に、蜂須賀のり入、次の日せんばをあけける處に、石主殿頭1のり入て、せんば橋迄押寄て橋を越んとする處に、敵はこさせじとすれ共、あたりの衆主殿頭處へすける衆一人もなければ、敵は是を見てあたりのてつぼうをあつめて打立けれ共、事ともせずして良久しくたゝかいければ、相國樣聞召て、あたりの者共はすけずして主殿をばすてころすか。主殿は何とて目もあかざる處へ押寄けるぞ。さう〱引のけよと重々御使ひの立ければ、其儀ならばとて少引のきて小口をかためていたりけるを、天下にかくれなく申ならしたり。相國樣も大將軍樣も兩日の手がらを御感被成けり。さて城を四方より取つめ、高く築山を築て大筒をかけ、又は江口をつききらせ給ひて、天ませんばの河をほし、天地をひゞかせ攻させ給ふ。
- 誤植石主殿頭 — 底本「石主殿頭」。「河」の脱字か(同頁に「石河主殿頭」)。