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味方崩れと旗奉行の不在編集見出し

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然る處に相國の御馬じるしの天王寺の方に御座候と見て、其方へ御旗を押けるに、頓て押付るに、天王寺の南にて味方俄にくづれて來りければ、其時御旗を立けるに、二人の旗ぶぎやう一人もゐず。相國樣は道より天王寺の方に頓て道畔に御馬をひかゑさせ給ひて御座被成候。御邊には馬のりとては小栗忠左衞門より外は一人もなくして、ちり〲になりけるがにげたる事やらん、又御さきへゆきたる事やらん、御前にはあらず。然共少身の衆は此時に候へば、手前をかせぐとても御先へ出ても似合たれ共、御目をかけられて人となり諸國の衆にもちいられて御影を見、人に怕慄かれける衆は老若をきらわずして、上樣之御あたりを一寸はなるゝ事は何たる武邊をしても第一のひけなるに、ましていわんや何れも有所をしりたる者は一人もなけれども、時のいせいによりて我も存知たり、我も存知たるとは申せども蔭にては有所存知たると申人一人もなし。其時御旗ぶぎやうの衆御旗のあたりには一人もあらずして、はるか後來りて保坂金右衞門が申けるは、大久保平助我等はさきへゆかんと云ければ、彥左衞門申けるは、尤の儀なり。先には鑓がはじまりたると云にさう〱ゆきてやりをし給へ、我等は仰被付ける御道具の有所にて可有と申ければ、金右衞門然者我等も參間敷と言ければ尤の儀なり、何事はなけれ共若何事もあらば、仰被付たる御だうぐを枕として、はて給ふを本義と存ずる成と云ければ、其時御旗の所へは參たれ、せう田三太夫は先へ出てむかひより鐵砲をはなしける間、其に寄て先へ出て我等も鐵砲をかけていたるとは云けるが、まことに鐵砲をかけていたるやらん、又はくづれたるやらん人はしらず。たとへば先へ出ててつぱうをかけてある共ゆわれざる事なり。仰被付ける御どうぐのあたりをはなれ申事はきこへ不申。然間はじめより彥左衞門ばかりいたる處へ、頓てすわべ惣右衞門が來たる、おしつゞきて若林和泉が來る。御旗奉行二人はるかおそく來る。然間各々の被申樣にも彼衆にましたる御普代の衆も有に、ゆわれざる衆に御旗を仰被付ける物哉。其故上方と御取合の處に、せう田三太夫も上方の者なるに仰被付候儀はさりとはゆわれざると申。甲州關東の儀は上方との御取合なればくるしからざる事なれ共、是と申も出頭衆の氣に入たる故なり。きに入而申被付而も御ためには不被可然事成と各さたしたり。さて又相國樣は五月八日に御歸京被成けり。大將軍は御跡にとゞまらせ給ひ、秀賴に御腹を切せ給ひて其外御仕置共被成て御歸京なる。