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松平(長澤)

第二 · 段落 9 · 780520 29コマ Lから

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地名 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

右衞門大夫源正綱は、和泉入道殿の御弟、備中守久親の後胤、甚左衞門尉正次の子これを長澤の松平といふ、一說に久親は信光の御子といふ、實は大河內金兵衞秀綱が二男、德川殿の仰に依て、正次の世嗣となりしなり、此秀綱と申は、源三位入道賴政の孫、源大夫判官兼綱の三男、大河內源太顯綱が末葉なり、治承四年に高倉の宮の御事有し時、賴政兼綱打死す、源太顯綱年わづかに二歲なりしを、其母むつきの中にかくして、尾張國中嶋といふ所に落下り、また參河國額田郡大河內といふ所に移り住む、顯綱成人の後、大河内源太と名乘る是より子孫三河國に住す、金兵衞秀綱は、顯綱が十一代の孫と申なり、秀綱德川殿に、仕へ奉て、遠江國稗原の地領し、入道の後休心とぞ號しける、正綱十七歲より、德川殿に近く召仕れ、常に御側をはなれず、近習出頭人衆といひし也、慶長五年關が原の戰に隨ひ、同八年三月叙爵し、大坂兩度の戰にも、大御所の御陣に從ふ、大御所薨し玉ひし後、左大臣家の御時に至て、三代に仕へ奉りて、凡天下郡國の吏務、貢賦の結觧をつかさどり、要劇の職に居て、終に一事の淹滞なし、寛永十九年三月三日、始て勘定頭といふ、職置かれて、伊丹播磨守康勝、酒井紀伊守忠吉、杉浦內藏允正友等、三人に司らしめらる、是れ正綱が年來壹人して、司りし所なり、これ寛永の日記に見えたり、按するに、正綱が晩年に伊丹播磨守と二人して、事を行ひしと見え又諸役人帳に御勘定頭の下に、初めに右衛門大夫播磨守二人を載せしは、誤なり、かく夙夜奉公の勞を積みけるほどに、恩賞行はるゝ事も度々に及ひ、所領數多知行し、相模國甘繩、伊豆國本目等二万石の地、慶安元年六月廿二日に卒す、其子佐渡守利綱、備前守隆綱に父が所領わかつて賜ひ、佐渡守利綱程なく卒し、備前守隆綱家を繼き、萬治二年二月廿一日、御奏者の事をうけ給はる、
或時若君、大殿の御寢殿の屋の軒端に、雀の巢をくひ、子を生みたりしを、こなたより御覽じて、欲しがらせ玉ひ、長四郞とりて參らせよとあり、長四郞年十一才のときなれば、いかにも叶ふましきよし辭しげれば、君は驚きて飛去ることもありなん、巢くひし所よく見置て、日暮てこなたの屋の軒の端さして登り、彼處に忍ひ行て取へし、おとなは身重く、足音もしなん、たゝ汝取てまゐらせよと、候ふ人々の敎へしかば、力なく、日暮てこなたの屋よりして、つたひ〱行く、既に御寢殿の軒に至りて、取らんとせしに踏損して、御坪の內へどうと落つ、將軍家御刀取て障子引あけ玉へば、御臺所燈火とつて出させ玉ひ、御覽ずるに、長四郞にて在けり、將軍家不思儀にも召て、汝は何しに爰には來りぬるぞと、御尋ありしに、今日の晝、この御殿の屋の軒端に、雀の子うみたるを遙かに見て、餘り欲しさに參りて候と申、將軍家いや〱、おのれが心にはあらじ、誰かをしへけるぞと、いろ〱に御推問あれども、幾度も初め申しゝ言葉にかはらず、おのれ事の由ありの儘に申さず、爭ひぬるこそ、年比にも似ぬ不敵なれと、仰られて、大きなる袋の中におしいれて、口を御手づから封し玉ひ、柱にかけさせ玉ひ、事の由ありのまゝに申さゞらん程は、いつ迄も斯て候へと仰けれども、尙爭ひ申す事、初の如し、夜既に明て、常の御座に出させ玉ふ、御臺所は夙く心得させ給ひて、彼が幼なき心にて、身のかなしさをかへり見ず、竹千代君の仰なりと申さゞる事を、深く感じたまひて、女房達に仰せて、朝かれい召して、是たうべよとて給りて、又御手づから元の如くにぬはせ給て、置させ玉ふ、晝の程、將軍家入らせ玉ひ、又推問ありしかど、終に言葉をかへず、御臺所御わび事ありしかば、さらば向後の事を愼むべきよし仰て、御ゆるしあり、將軍家、御臺所に向はせ玉ひ、彼が今の心にて生立たらんには、竹千代殿の爲には、双なき忠臣にて侍らんものぞと、殊の外悅ばせたまひしとなり」
元和九年七月、左大臣家將軍宣旨の時、信綱叙爵して、伊豆守になさる、此年十二月御扈從組の番頭になされ、寛永十年五月五日、宿老の職に成て、同十二月九日、武藏國忍の城を賜ふ、二万石を加へられて、二万六千石を領せしといふ十一年七月廿九日、從四位下、十月廿一日、所領加給ひ、四千石を加へられて三万石を領す、此月御扈從組の番頭をゆるさる、十四年十一月、嶋原の賊徒起て、板倉內膳正重昌、追討の御使を承て向ひ、西國の軍勢を催して、攻けれども、城落ちず、信綱重て御使を承る、明れば十五年正月元日、重昌打死す、同き四日信綱馳着て、二月廿八日城を落し、三萬七千人が首切て懸け、九州の事共、能く沙汰して、同四月關東に歸りぬ、十六年正月五日、河越の城に移り、所領倍し給ふ、六万石廿年十月、侍從に進み、正保四年また所領を加へ玉ひ、七万石を領す、寛文二年二月十六日、六十七歲にて卒す、
「此人の才敏なりし事ども、世に傳ふる事、いくらといふ數を知らず、されども、其事共、天下の大勢に預らぬ事なれば、誠に數ふるにたらず、初め左大臣家かくれさせ玉ひ、將車家いまだ御幼雅の時に、故將軍家の御時は、國をも郡をも玉ひ、祿をも俸をも當て行なはれし事、年々月々に絕えず、當代に至て、終に其事なし、かくては如何で奉公の勞をもなぐさめ、主に仕ふる忠をも勸めんやと、諫むる人も謗る人もありけり、信綱是を聞て、君いまだ幼なく渡らせ玉ふ、今に當て、功勞ある人に、恩賞行はるゝ事あらんに、たとへ恩賞を蒙る人悅ぶ事ありとも、又謗る人は、君はいまだ幼雅にてまします、是皆執政等が心なきに付て、おのれ〱が、かたさまの人々をのみ、執し申なりなど云はんには、善を勸め、德を施すにはあらず、恨を加ふにこそあれとて、將軍家、政をみづからし給はざりしうち、終に其事なかりしかども、人でとに敢へて怠たりたゆむ心なく、夙夜しけり、是一つ、天下の大名の代々にたてまつりし人質を、此時に至りて盡くに歸さる、是二つ、近世の慣はしなりし殉死の事、堅く禁ぜらる、是三つ、中にも明曆の火災には、城郭盡く灰燼となり、人民悉く焦爛す、かゝる事は、古より聞も傳へず、又後の世にも有べからず、まして去年の逆徒由井正雪等か、火を放ちて、兵を起さんと謀りしこともあり、是はいかさま只事にはあらじと、上中下の心も、靜かならず、其時信綱の、立所に執り行ひし事、殊に皆其所を得て、程なく天下また其他も靜かに治りて、昔にかはらぬ世となる、かゝる事どもは、みな古の名臣賢佐にも恥ぢぬ、善政にてありけり、それも執政の人々の、衆議一决してこそ、斯はありけめとも、謗る事も、譽むる事も、信綱一人の計りしやうに、世にいひしことは、是れ併しながら、名譽のいたす所なり、
城陷ちんとする時、輝綱一騎馬を駈て城に向ふ、親父信綱大に怒り、岩上角左衞門某といふ郞等して、押止しむ、岩上はせ着き、馬の前に立塞り、伊豆守殿將軍家の御代官として、向はせ玉ひしに依て、諸軍と功を爭ふべからずと、御手の者共をたに、堅く制し玉ふ所なり、まして長男の御身として、かく拔懸して、先を爭ひ玉はん事、あるべうもなし、急度留めまゐらすべしとの御使に、參り向て候と、馬の頭を引返す、輝綱聞もいれず、馬を馳せ出さんとせし處に、岩上冑ぬぎすて首さし出し、某が首の候はん程は、軍し玉はん事叶べからず、速に首をはねられてのち、御心まかせにせらるべしといひて、終に馬の頭引かへし、一鞭あてゝ、味方の陣に追かへす、輝綱常に恨みて、輝綱が軍の高名なかりしは、岩上が所爲なり、さりながら、主人を諫めとゝめんには、かくこそはあらめと、感ぜられしとなり、其後、御詰衆の列に加へられ、父卒して家を繼く、寛文十一年十二月十二日、年五十二歲にて卒す、
此人天性弓矢の道を嗜て、凡武藝の事、盡くに長じ、家子郞等にも、常に勸め學はせ、飼に飼うたる馬共、多く厩に牽立て、庫にみち〱たる、弓箭兵仗、盡くに其制精しからぬはなし、されば、世に鎧冑より初て、馬物具に至るまで、甲斐殿やうとて、武士の手本となる事、年若くして戰の場にのぞめるといふ斗にて、一度の高名もなき人の、斯もてはやされしこそたゞならね、