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森川

第五 · 段落 6 · 780522 34コマ Lから

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地名 3 2 1 1 1 1 1 1 1

ある說に、氏俊が祖は、宇多源氏、佐々木六角泰綱が末孫、堀部彥三左衛門尉宗綱より出づ、其後尾張國比良鄕に在り、堀部三四郞宗氏といふ、織田信秀に屬す宗氏が子、兄は森川助右衞門定兼、弟は堀部與四郞氏兼といふ、織田家に屬し永祿四年に死す、氏俊は氏兼が子、德川殿の仰に依て森川と名乘と云、按ずるに、氏俊が伯父定兼も森川と名のり、氏俊もまた森川と名のる事、いかさま其故あるべけれども、いまた詳なる事を聞かず、當時森川と稱せし者は、今川宗徒の家人なりき、
初め永祿七年氏俊始めて德川殿に仕へまゐらせ、當時御家人の中、無双の勇士二十人をすぐつて、足輕大將を定めらる、金右衞門尉其壹人に選み出されて、馬武者十騎步兵五十人を屬られたり、是を御先手鐵炮頭廿人衆といひしなり重俊二男といへり大相國家に仕へ奉り、双なき昵近の者にて、終に執政の職に任し、西城に徙らせ玉ひしにも從ひ參らせ、御書院の番頭を兼ぬ、寛永九年正月二十四日大相國家、かくれさせ玉ひし夜、宿所に歸り一門の人々呼集め、夜一夜暇乞して、曉に至て、腹切て殉死す、年四十九歲とぞ、
按するに、出羽守が甥に森川若狹と云ひしは、童の時、天下無双の容色なり、大御所の御外孫蒲生下野守殿の、御寵愛淺からず、所領餘多たびて、彼家にして、當時の權勢、肩を並ぶる人なし、然るに、下野守殿御年廿五歲にて、寛永四年正月四日に、かくれ給ひぬ、此頃のならはしにて、色を以て寵を受し者は、必其君のために殉死する事にてありけり、其家の事はいふにや及ばん天下の人々、守殿の御供して死せん者、この森川にこそあらめと思ふ、若狹が母、若狹を諫めて、わどのは守殿の御供して死なんと思ふか、いまだ盛りにだにみたぬ御身、先だてゝ、母は如何で此世にながらふべき、たとへ御身死したればとて、守殿かへらせ給ふべき道にもあらず、されば心ある人は、殉死とやらんいふことは、よからぬ事と云ひぬれど、近き世のならはしなればこそ世の人々もいたづらなる命をばすつれ、實の道にもあらぬ死して、母をも共に失はん事は、忠にも孝にも耻るべければ、相かまへて御供せんとな思ひそ、母がゆかりの者も、都には多かり、如何にもして、こゝをば忍ひ出てのぼり玉へかし、また御身が一生を送り過さん程は、年頃賜りし、からのやまとの寶物多し、金銀は、なほ少からず、御身出でいなん跡の事は、わらは好きに計うて參らせん、あなかしこ、とく忍ひ出で玉へといひければ、供人少々引倶して、奧の會津をば夜にまざれ忍ひ出で、東海道に差懸りて、都に上りけり、若狹が一族なりける北川土佐と聞えしは、蒲生家にて隱れなき剛の者、殊に家のおとななりけり、ふしきや若狹がはや腹切べき身の、如何でかくは遲かりけるぞと、一日二日待しかど、其事聞えざりしかば、最期の事を催しけるに、初めの程は、母が計ひにて若狹が答ふるやうにして、兎角いらへしが、後には逃け出ぬといふ事顯る、北川大に驚きて、手の者共にいひ付て、急き追かけ、搦取て來るべしと下知し、江戶へも飛脚はせて、此由を出羽守に告ぐ、出羽守以の外に怒りて、家子郞從一人も殘らず、海道をさして追かけ、打留めよと下知しければ、弓よ鐵砲よと、ひしめきて、鞭鐙を合せて追かけ、追手の勢、箱根の關に至りし時、關守ども固く止て、壹人も通さず、出羽守が一族の人々集りて、わどのは當時、執政の人にて、世の騷き起し玉はん事然るべからず、事既にかくの如し、世にも披露せし上は、かれをば討たりとも、一門の恥免るべきにもあらず、罪作りに扨置き給へといへば、追手の勢も、箱根より引返す、いづれの世にもある事にて、當時權勢ある人には上には從ふやうに見ゆれども、下には嫉み謗るは、よからね人の慣ひ1なるにて、天下の人々、心安きどちは打寄て、出羽守が日でろ我身御覺の忝さに、君の御大事あらんには、眞先に死して、恩に報ひ奉らんと思ふ氣色なれど、親しき猶子に、かゝる大臆病の人もありけり、それが伯父、實の際の事、覺束なしなど、嘲り笑ふと聞えければ、出羽守いよ〱口をしき事に思ひけり、程なく大相國家かくれさせ玉ひ、御供すべき人もなく、深く御恩に感じ參らする事多かりしかば、かくは殉死しけるとぞ見えける、此時また御供すべき人なりなどいひしに、左もなく世に在しをば、出羽守が事を例に引きて謗る人々ありき、謗らるゝ人のかたざまは、出羽守が死したりしを、嫉ましく思ふもありて、かくよからぬさまに云ひなしたるなり、又如何なる事にや、大相國家の親しう召仕れし人々、かくれさせ玉ひし後、何としてか、將軍家の御覺よからぬも多かりしかば、かく云ひしも、むべなり、かれこれ偏に出羽守が不幸とこそいふべけれ、かゝるうち〱の事は、世に知る人、今はなければ、出羽守が志の程空からんも哀なれば、事ながけれども、こゝに記しぬ、彼の若狹は、後に京に住して、商人のやうになりて、笹屋宗句といひて、寛文の頃まで、永らへ在りき、其後は如何にや、精しくは知らず、
  1. — 底本のまま。前の列末「よから」に続く「ね」は「よからぬ」の底本の誤植とみられる