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一柳

第九上 · 段落 8 · 780524 50コマ Lから

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この家によく出る人物・地名

人物 7 6 4 4 3 3 3 3 3 3 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1

地名 4 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

世に傳ふるは、此家の先祖、双無き鞠の上手なれば、主の土岐、一柳と名乘らせけりと云ふ、其系圖には、只自ら改めて一柳と名乘ると記し、又何れの世より、かく改めしとも見えず、思ふに、尾張國一柳の御厨に住して、かくは名乘り、其後美濃に移りしにや、覺束なし
系圖を見るに、直高は河野伊豫守通義よりは四代の孫、四郞通信には九代なり、豫章記を按ずるに、通信が五代の孫伊豫守通義、應永元年十一月廿六日、年廿五歲にて卒す、舍弟六郞通之に家を讓ると云々、應永元年より、直高が生れし年、享祿元年に至りて、凡百三十餘年なり、通之より直高まで、三代の間に、百三十餘年を過ぎしと云ふこと、覺束なし、思ふに通之が孫刑部大輔通宜より、直高に至る迄の間、系圖に洩れし人あるべし
直高男子二人、兄は市助直末、弟は四郞左衞門尉直盛とぞ申ける直末父に繼きて織田殿に仕へ、信長討れ給ひて後、秀吉に属し參らす、秀吉北畠殿と軍起りて、天正十二年の夏、美濃國竹が鼻の城を攻落して、直末に賜ひ、一万石又伊豆守に任す、同き十八年、相摸の北條を討れし時、直末山中の城の先駈して討死す、關白惜ませ給ふこと限り無く、舍弟直盛して、其家を繼がせ、監物になされ、尾張國黑田の城に遷さる、三万石慶長五年の秋、德川殿に隨て、奧に向ひ、上方の軍起りしかば、引返して攻め上り、所々の高名、其類ひ少からず、因て勸賞として、伊勢の國神戶の城を賜ふ、家忠日記追加には明る慶長六年に賜ふと見ゆ、其他の書には、皆五年十一月に賜ふと云、又七万石と云、五万石と云、両說あり同十年、二男直家、人質として關東に奉る、將軍家御感あつて、頓て御恩を蒙りぬ、八十四人扶持十四年、子息等叙爵して、嫡子直重丹後守、二男直家美作守に任ず、大坂前後の戰に、父子共に馳せ向ひ、討取る首四十を獻れり、直盛代々の將軍家に仕へ奉り、左大臣家の御時に至りて、抑も伊豫の國は、累代の先祖領したる國なれは、彼國にして、所領賜り、長く子孫に傳へばやと望み申て、卒しければ、寛永十三年、彼が望に任せて、子息等に彼國にて、所領分ち賜りしとぞ聞えける、世に傳る所、斯の如し、誠に然りしにや直盛卒せし年月日未た知らず嫡子丹後守直重、父が遺領分ち賜ひ、伊豫國新居郡西條に住す、三万石〇卒せし年月日、未た知らず其子監物直興、家を繼き、舍弟半彌直照に所領分つ、三万石の中にて、五千石を分つと云ふ直興後に罪蒙り、寛文五年七月廿九日、加賀の國へ流され、加賀守綱利に預けられて家絕えぬ、
禁裏修造の時、直興其役に隨ひしが、修造畢ての後、密に豫州へ下り、遷幸の時に臨みて京都にあらず、殊に平日淫逸の聞え多くして、所領沒収せられしなり、
美作守源直家は、直盛が二男なり、初め質子として、關東に參りければ、將軍家より台德院殿大相國祿賜りて仕へ奉る、父卒して其遺領分ち賜ふ、伊勢の神戶の地にて二万石、伊豫國にて一万石、合せて三万石を領し、伊豫の川上と云所に、城を搆へんとせし內に卒す程なく卒して男子なく、小出伊勢守吉親が二男に、娘配せて、家繼かせん事を望み申けれども、其事早く御聽に達せずして卒しぬ、彼が所領三が二を減せられ、其一つを賜り、吉親が二男して家繼せられ、一万石宇右衞門直次と申す、其子對馬守直好、後には土佐守