帶刀源泰勝は、土佐守泰忠が男なり、泰忠初は法師にて、三河國鳳來寺の別當安養院と申す、元龜三年の冬、三方が原の合戰の時、軍功を顯しければ、榛原の郡にして所領を給ひ、御家人となされしとこそ聞えたれ、其後高名度々にて、北條の家亡びし時、本多鳥居等の人々と、武藏の國岩槻の城を攻落す、今年關東に移らせ玉ひしかば、上總國勝浦の地を給ひ、三千石關が原の戰には、東國に止めらる、明れば慶長六年所領の地加給ひ、都合五千石を領す十六年十二月十八日七十三歲にして卒す、家忠日記追加に植村法印と記す、帶刀泰勝父に繼で、慶長十八年伏見の城を守る、井伊直孝と共に守るなり、大坂前後の戰に、將軍家の先陣を打て馳向ひ、首を切事十二、元和六年大番頭と成る、今領する上總國天神山、一万千石の地、泰勝の時に給ひしといふ、詳かなる事いまだ知らず、卒せし年も聞かず、諸役人系圖を見るに、大番頭たる事、寛永十二年二月に至る、此頃迄は世に在しなり、其子帶刀泰朝正保二年閏五月廿九日に、大番頭と成り、寛文三年八月十四日六十歲にして卒す、其子土佐守忠朝、寛永八年八月1御書院番頭と成り、同き九年二月廿二日大番頭に移れり、
- 寛永八年八月 — 지면 그대로. 父 泰朝 몰(寛文3年) 뒤 기사이고 뒤 「同き九年」도 같아 寛文8·9年의 저본 오기로 보임. 미확인