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가문 목록 › 第五 › f047

土井

第五 · 단락 7 · 780522 10코마 L부터

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지명 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

系圖の傳ふる所かくの如し、世に傳ふるは利勝が父小左衞門と聞えしは、德川殿の外樣侍とも、又は刈屋の地下人とも申せしなり、利勝實は小左衞門が子にはあらず、水野下野守殿の庶子にて、德川殿の御爲には、外戚に付ての御從弟なり、信元の討れ玉ふ時、利勝年僅に三才にて、いまだ人知らざりしかば、乳母我子の如くして育てしに、小左衞門養て子とすいふなり、又古き人の物語を聞しに、或時德川殿、御鷹狩のため出させ玉ひしに、獨りの女、道の邊りに幼き子抱き居たるが、御輿を迎へて涙に咽び、泣くどきて申事ありしに、やがてその兒を召し具せらる、是れ大炊頭利勝あり、されば其時は德川殿の御子なりとも申しき、下野守殿の子たる事は、此時によく聞召たるらんと申せし、誠にや、
天正七年四月七日大相國家、濱松城に御誕生ありし時、德川殿利勝が七歲なりしを召て、若君へ附られ、甚三郞とぞ召れける文祿四年七月、中納言殿は、都に御座ありしに秀次關白、父大閣に罪蒙り玉ひ、中納言殿を却し質として、一旦の害を遁れんと謀り、朝とく御使あつて、朝餉參らすべしとありしに、大久保相模守忠隣、其謀を察して、中納言殿には、利勝等五六人御供に倶せられ、忍やかに、伏見の御館に渡らせ給ふべし、忠隣御跡の事をば、よきに謀りなんと申す、さらば伏見に赴き給ふには、大路をや經給はん、又竹田路にや、掛らせ玉はんと、御路の程、一定せず、利勝勸め申に因て、大路を經て、恙なう伏見にこそ入らせ玉ひけれ、精しくは、大久保の傳に見えたり慶長七年、下總國小美川の地を給ひ、一万石其後從五位下に叙し、大炊頭に任し、大納言家の宿老となされ、同十三年の冬所領の地一倍を加へ玉ふ、十五年の春同國佐倉の地を給、三万二千四百石餘此年八月御使として駿河に參りしに、大御所、御茶入を給て、紹鷗圓座肩衝汝關東に歸りなば、將軍家に茶を參らすべしと仰下さる、明れば十六年、將軍家利勝が家に成らせ給ふ、是れ大御所の仰によつてなり、此後次第に恩かうむりて大名となり、新に佐倉の城きづきて、十四万二千石を領す、利勝に知行賜ひし次第、諸記に記する所異說まち〱なり故に其大畧を採る、寬永三年八月、從四位下、同九月侍從に任ず、同九年の春、大相國家かくれさせ玉ひしとき、利勝只獨り謀をもつて、天下を泰山の安きに置くといふ、其事秘しぬれば、詳なる事をば世人知らず、同十年、古河の城に移る、十六万二千石同き十五年六月、連署の事免され、世に加判御免といふ大老と稱せらる、大老といふ事は、利勝より始る、正保元年七月十日、七十二歲にて卒す、嫡子遠江守利隆、寬永七年十二月、叙爵して、御扈從の番頭となり、十二年十月廿九日、酒井備後守忠朝と二人、始て少老の職を奉る、是少老の始なり、土井酒井が父子、共に執政の職を司り、中にも土井が父子、初めに大少老の職に任す、希代のためしなり、
然りと雖ども如何なる故ありけん、十五年十一月廿二日利隆も忠朝も、少老の職御免ありしかば。是よりして二人病と稱し、出仕日々に間遠になりぬ、父卒して後、嫡子なれば利隆家を繼く、十万石利勝かねて望申せし如く、殘三人の男子に、彼が遺領を分給ふ、下に詳なり利隆多病の由にて、終に万治三年九月七日籠居し、嫡子大炊頭利重家を繼く、十万石二男周防守利益、一万石〇時に小左衞門と云ふ并に三人の舍弟等にも、所領を分つ、下に詳也大炊頭利重、延寶元年十月十七日に卒す、子ながりし1かば、弟竹右衞門といひしが、僅八歲なるを世嗣とし、帶刀と改む、是も幾程なくて、同三年四月廿九死しければ、家絕えぬ、同年五月廿九日、利隆が二男周防守利益を召し、汝が祖父の功空しかるべからさるに依て、別の儀を以て汝をして家を繼しめらるゝ所なり、重て地給らん程は、古河の城に在て然るべしとて、所領を給ひぬ、七万石を領す
  1. — 지면 그대로(「か」에 탁점). 문맥상 「子なかりしかば」의 조판 이상으로 보임
兵庫頭源利長は、利勝の三男なり、父が所領を分ち賜ひ、二万石、一說に父が所領二万石を賜ひ、其後兄利隆が籠居の時又一万石を分つ、正保元年十二月晦日、叙爵して、御奏者の事を司る、寛文三年に、三河國西尾の城を給ふ、二万三千石延寶九年四月十三日職免されて致仕す、是れ身の病に因つて辭し申すが故なり、世嗣なかりしかば、稻葉美濃守正則が五男を養て、家を讓る、叙爵して、式部少輔利忠と申す、これ利長が妻の甥なればなり、
能登守源利房は利勝の四男なり、父が所領を分ち給ふ、一万石、一說に父が所領一万石を給ふ、其後兄利隆籠居の時又一万石を分つ、寛文三年所領を加へ給て、少老の職を奉る二万五千石、延寶七年七月十日に、執政に補せられ、所領の地加へ玉ひ、凡四万石を領せしなり從四位下侍從に任ず、
信濃守源利正は利勝が五男なり、父の所領を分ち賜ふ、一万石、一說に父に遺領五千石を給、其後兄利隆が籠居の時、又五千石を分つと、延寶三年御奏者の事を承る、同五年三月十五日、出仕して、罷出るとて、城中にて中風し、家に歸りて卒す、世嗣なければ、死に臨みて、兄能登守利房が二男を世嗣とすべき由を申けり、末期の養子をば許し玉ふまじき法なれど、彼が年比奉公の勞ある事を思召て、請に依て、養子左門家を繼き、所領半減せられ訖んぬ、