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가문 목록 › 第五 › f060

伊丹

第五 · 단락 5 · 780522 40코마 L부터

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인물 9 3 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1

지명 2 1 1 1 1

f060.p001교정 완료40L:4–8
播磨守源康勝は、初め喜之助と申せしより、大御所將軍家に仕へ奉り、大坂の合戰に隨ひ、首取て獻る、御納戶の頭を經て終に御留守居に至る、其家の系譜を見ねば祖先の事詳に知らず、中頃松平右衞門大夫正綱と共に、郡國の吏務貢賦の結解等を司り、寛永十九年三月三日、始て勘定頭三人を置かれし時、其第一に擇まれき、年老て頭の毛悉く禿なりければ、おのづから入道して、順齋と號す、
f060.p002교정 완료40L:9–14
諸役人帳を按ずるに、此人年頃松平右衞門大夫と同しく、天下吏務の奉行人たり、後に二人ながら、いさゝか御勘氣を蒙る事あつて、蟄居せり、其後をば、御代官伊奈半十郞大河內金兵衞の二人假に司る、其後これも御代官曾根源左衞門其事を兼ね司る、こゝに於て、播磨入道順齋、酒井紀伊守、杉浦內藏助の三人を以て、御勘定頭になさる、是れ御勘定頭の初なりと云々、然れば、伊丹かくの如き職に在る事再度なり、
此人農を務め商を通し民と共に利を同しうしける名譽、天下の人語り傳ふる事誠に多し、
たとへば、當時商人の抽分の料とて、世にいふ運上金といふ事なり黃金を公けに奉りて、甲斐の國の御領より出る小紙を世にいふ鼻紙といふものなり一人して買て、商ふ者あり、然るに、また富める商人ありて、職につきて、今迄の人が奉りしより、貢金一千兩を增して奉るべし、某に小紙買ふ事を許し給ふべき由を望み請ふ、人々此事然るべき事なり、許すべしといへば、入道順齋まづ待ち玉へといひて聞かず、此望み請ふ商人は、執政の人々にも知られたる者なれば、内々執政にも此由を申て、望み請ふ事止まず、三年の後、執政の人々、順齋に向ひて、甲斐の御領より出る紙の事、望み請ふ者あり、同職の人々許すべしとあれども、わどの獨が用ゐぬといふは、まことか、天下の富より見る時は、千兩の黃金、誠に少しきなりといへども、これを以て、國用を足す時は、豈資なしとせんや、如何で許し玉はぬぞやと云ひけるに、順齋是を聞て、今より後、偸盜の起り候はぬ政たに候はんには、如何にも許しなんと答ふ、人々心得ず、如何なる事ぞといへば、本朝にて唐土より殊に勝れたる者は紙の品なり、中にも小紙といふ者は高きより卑きに至て、一日も無くてかなはぬ者にて、其價の賤ければこそ、世の助けとはなれ、望み請ふ者が、今までの商人が奉りしより千兩の金を增して奉らんといふは、此千兩の金、いづくより出づべき、此紙をあきなふに、價を增して、其利を得て奉らんとの事に候はん、彼まづ價を增して商ふを、又それを買て、商ふ人いくらもあらんに、是も同じく利を得てあきなはんとせんには、こゝに加り、かしこに增して、後には價甚だ貴くなりなん、凡そ一帖の紙價一二錢を增したらんには、資ある人の患となるには足らず、貧賤の人一日に得る所の利、誠に少なし、僅に一錢二錢を重ねて、妻子をも養ふ、かくあさましき者とても、今日までは小紙やうの者を常に用ゐ來れり、値忽に增したればとて、更に何物を以てか是に代ふべき、然らばこれ等も又、おのれ〱が商ふ者なににもあれ、その値を增して、其得る所の利を以て、小紙をも買ふより外の事あらじ、凡そ一物の値ます時は、万物の値同しく貴くなる事甚し、物々の値貴く成るに至て、求めんとして得ざる時は、或は飢ゑ或は寒ゆ、飢るとこゝゆるとの極りには、必ず死す、死すれども守る所を失はぬは、士より上つ方の事にて、下つ方の者は、飢ても死す、寒ても死す、盜みしても死す、死は共に一定なり、同じく死する命ならば、如何にもして一日も世に在らまほしく思ふは賤きが、ならひなり、扨こそ盜みは起る事にはべれ、是はたゞ農と商との事のやうに候へども、士の召仕ふ婢僕從者等も、物の値たつとくして、求て得ねば、盜む事多し、かく偸盜の世に行れん時に至ては、如何なる政を以て、是を止め給はんや、是等の盜は、皆貧しきと賤しきとより起る事にて候が、夫よりも又、かく民にゆるして利を爭はしめ、其利上に歸する樣にし給はんには、天下其風に靡き隨て、よき人も共に利を爭ひ、各其欲する所を得んと思はん、是等は盜せぬ盜人にて、其禍は盜するより猶深し、當代既に天下の富を保たせ玉へば、世の寶悉く御寳ならざるはなし、且は上の費をだに省かせ給はゞ、一年の內に積む所の御寳、幾千万兩の事にてか候べき、夫にわづか千兩の金を增んとして、民を苦しめ、世の風を濫り給んは、身の肉むらをそぎて、飢を救ふに、腹の滿つるとき、即ち身の終る時に同じかるべし、大畧、天下の物あたひ貴く成り行くは、國郡に抽分の多くあるが致す所なり、入道既に年老たり、頓て死し候べし、相搆へて此後もかゝる事申す者ありども、人々能く心せさせ玉へといひければ人々深く感じけるとなり、
承應二年閏六月廿六日康勝卒し、嫡子藏人家を繼ぎ、一万二千石二男左近父が領を分つ、開發田二千石〇左近、岡部と名のる、藏人勝長父か闕に補せられて、勘定の頭となり、播磨守に任し、其後如何なる故かありけん、一色內藏助が爲に討れて、寬文二年三月廿七日、六十一歲にして死す、一色は東海道吉原蒲原等の御代官、勝長が家に來て討しとなり、其故は明らかならず、其子大隅守勝政家を繼く、