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奧平

第六 · 단락 13 · 780522 43코마 L부터

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家の系譜に曰く、村上天皇の御子具平親王十二代の御裔、安藝國の住人赤松太郞則景、治承の比、關東に下りて、右兵衞佐賴朝に隨ふ、則景が二男、秩父の一族兒玉が聟と成て、其家を繼く、兒玉庄左衞門尉氏行と名乘る、末流上野國に移り、奧平の鄕に住みしかば、また改めて奧平と名のる、世々上野に住すと云云、○兒玉の系圖を按ずるに、内大臣藤原伊周公の二男顯長より九代、太郞左衞門忠行が子に、新左衞門氏行といふあり、是家の系譜にいふ氏行にや、家の傳ふる所の如くなれば、元は村上源氏にて、藤氏の流を繼きしなり、平氏と稱する事、如何なるいはれあるにや、又和名抄を考るに、上野國に奧平といふ鄕は見えず、又並合の記にしるす所、家の說に大に異なり、曰く三河國の奧平は、武藏七黨の中、兒玉庄左衞門貞政といふ者、初め吉野殿の御方にして、德川殿と共に三河國に隱れ住む、地の名に因て、奧平と名のる、家の紋、唐團扇としるせり、覺束なし、
彼が先祖一度安祥殿の清康公の御事御手に屬す、殿うせ給ひて後、今川に從ふ、美作守貞能、永祿八年の頃より氏眞に背き、德川殿に隨ひ奉る、同十二年氏眞遠江國掛川の城を去て、相摸國へ落行玉ひし事、貞能が功少からず、元龜元年六月近江國姉川の合戰に、貞能、酒井左衞門尉忠次が手に隨ひ、軍して、多くの敵を討つ、同き三年、貞能が父監物貞勝入道道文を始とし一族、甲斐の武田に從ふ、貞能も亦これに同じ、天正元年七月、德川殿、長篠の城を攻め玉ふ時、後卷せよとて、武田四郞軍兵餘多差し遣す、晴信入道の卒せしを深く匿すとすれど、貞能これを知りて、窃に德川殿に志を通し、敵の謀を一々に告け知らせ奉る、奧平が作手の城にも、武田が侍大將甘利左衞門尉馳せ加る、其上貞能が謀をば、一族等にも深く包みければ、勢の程も多からず、かゝる所に、武田左馬助、黑瀨といふ所に陣取て、貞能が心變りしぬと聞て、貞能を呼ふ貞能やがて黑瀨に至りしかば左馬助對面して、わどの家康に心合せたりと聞ゆ、今日の見參こそ神妙なれといふ、貞能驚く氣色もなく、此程の人、父は子を疑ひ、子はまた父を疑ふ、讒人の申す條、尤も信ずるに足る可らずと答て、さらぬ物語に時を移す、貞能暇こうて立出てしを、左馬助、道の程遠し、酒一つ參らせんといふ、貞能日もはや暮れぬべし、かねて設けし給はゞ賜はらん、さなからんには、此儘にても歸りなましといふ、左馬助、郞等召して酒とくまゐらせよといひしかば、立歸り靜に酒打呑て立ち出る、左馬助も、扨は人の申せしは、空言なりとぞ思ひける、今夜貞能幷に子息九八郞信昌おのが城を去て、宮崎瀧山に要害構て立籠る、創業記に、貞能が父の道文入道幷に二男は武田に組みすとあり、按ずるに、道文は文祿四年十月九日八十四歲にて卒す、二男とあるは、藤兵衞貞治が事なるべし、此人は關が原の戰に打死せしなり、〇九八郞後に信長より諱字賜て、信昌といひしなり、此頃の名、分明ならず、貞昌といひしよし、古記に見ゆ、然れども、系圖を考るに、信昌の曾祖を貞昌と云ふ、名同じければ疑はし、暫く後の名を以て稱するなり、
德川殿此よし聞召し、御勢を加らる、貞能父子、武田勢と戰ふこと止む時なし、貞能一族を離れ、おのが城を捨て、子息信昌、武田が許に質とせし、最愛の妻を捨て、父子同じく御方に參る事、其志尤も深し、其賞これ輕かるべからすとて、長篠の城落し時、城をば信昌に下し給ひ、天正三年二月の事なり又第一の御娘を信昌が妻と定めらる、龜姫君、後に加納殿と申せし御事なり、岡崎三郞殿御同母の御妹なり、
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此時岡崎殿、信康が妹を如何で信昌が妻とはすべきと宣へば、德川殿の御心にも叶ひ難く、此よし織田殿に仰せ合さる、信長、岡崎殿に異見あつて、宣ふ所ことわりに似て侍れども、彼父子は德川殿の御爲に、双なき忠あつて、殊に敵の境守らせ玉ふ者なれば、まげて父の仰に從ひ給はん事然るべしと仰せけり、岡崎殿聞召し、父の仰といひ、また織田殿もかく宣ふ、二人の親の仰せられん事、如何でかまた難じ侍るべきと宣ひしかば、姫君彼家に入らせ玉ふべきに極りぬ、
武田四郞これを聞て、安からぬ事に思ひ、同き五月の初、自ら多勢を引率し、長篠に押寄せ、もみにもうで攻む、信昌僅かの勢を以て防き戰ひ、寄手手負討るゝもの數を知らず、
此時に勝賴、信昌が質とせし妻をはりつけにして、甲斐國を出づといふ、一說に其事は是より前の事なり、夫故に、德川殿の御娘を下されしともいふなり、德川殿此由聞召し、信長の加勢乞て、信昌を助け來り給ひしかば、同き廿日、勝賴軍勢を引わけ、長篠の邊鳶巢久間の山に要害かまへて守らせ、わが身は有海原へ打出て陣を取る、此夜美作守貞能案內して、酒井左衞門尉忠次等、鳶巢に向ひ、明る廿一日の朝またき、二箇所の要害に押寄せ攻む、貞能自ら鎗とつて眞先に進み、敵をかけ破て、城中に入らんとす、敵また取てかへし戰はんとする所に、信昌城より切て出で多くの敵を追拂ひ、大手口に打て出て、作手、田嶺、鳳來寺岩小屋等の要害盡く降たす、かくて有海原の合戰、敵悉く敗れしかば、信長、貞能父子を召され、信昌わづかの勢にて、多勢の爲に圍まれ、敵を討つこと數を知らず、終に御方の後卷を待ち得たり、天下に双なき名譽なりと、感じ玉ふ事斜ならず、德川殿へ御使あつて、西尾小左衞門使たりといふ、姫君の事仰せられしかば、頓て彼家へ入れまゐらせらる、又長篠、田嶺、吉良、田原、三河の地なり刑部、吉比、新庄、山梨、高畑遠江の地なり等の地を給ひけり、同き七月貞能父子三河國武節の城を攻落す、信忠朝臣信長の嫡男其地つけて奧平にぞ給ひける、八月信昌、酒井左衞門尉忠次に伴ひ、織田殿へ參る、九八郞が此度の功無双なり、武者之助と申せとて、諱字に刀そへて賜ひ、其外に物多く給て歸さる、是より信昌と名のるといふ同き十年武田亡ひ、織田殿失せ給ひ、信昌、酒井忠次と共に、信濃の國に向ひ、伊奈の郡を打從へしに因て、榛原郡を下し給ふ、十二年の春、德川殿北畠を助けて、尾張國に向ひ玉ふ、手合の戰に、信昌先懸し、森武藏守長一が陣を打破る十八年小田原を攻られしに、信昌後陣を承る、此年關東に移り給ひしに、美作守貞能上野國小幡の地を賜ひ、三萬石、按するに、家忠日記に信昌に上野國宮崎二萬石を給ふと斗り有て、貞能に所領給ひし事を載せず、此時貞能存生なり、思ふに父子各所領給ひしにや、但し貞能致仕せしにや、慶長三年十二月十一日六十二歲にて卒す、子息九八郞信昌もまた美作守になる、同五年九月關が原の軍終て後、信昌京都の守護となり、當家所司代置れし初めなり六年二月美濃國加納の城を給て移る、此時十萬石を領す、岐阜の城を徙し築かる、當家天下を知召して、第二番に築かれし所なり、今年十二月廿八日、嫡男大膳大夫家昌、下野國宇都宮の城を給ふ、十萬石家昌童名九八郞、是れ大御所の御外孫、或說に家昌は加納殿のむませ玉ふ所にあらずと、不審、天正九年十二月、一說には十五歲の年の二月といふ德川殿の御前にて元服し、御諱字を給ひ、文祿四年、叙爵して大膳大夫になさる、一說に、慶長四年に叙爵すと、又慶長四年には四位の侍從になると不審、二男松平右京大夫家治は、天正十六年十二月、德川殿の御前にて元服し、御家號幷に御諱字を給ひ、上野國長根の地を給ふ、此時家治十歲なり、家忠日記に二歲とあり、誤れるにや、又所領如何程といふ事を知らず此人は不幸にて文祿元年三月四日、十四歲にて卒せらる、三男松平攝津守忠政は、文祿四年一說に元年五月十六歲にて、中納言殿台德院殿の御事の御前にて元服し、御諱字給る、忠七郞殿と申す按ずるに家忠日記に載する所かくの如くなれども、弟の忠明文祿元年に元服すと有て、兄の忠政文祿四年に元服とのせし事、心得がたし、慶長二年菅沼小大膳定利が嗣となり、上野國吉井の地を領せらる、二万石、これよりして菅沼忠七郞殿と申す、同き五年の秋、石田等が兵起し時、中納言殿の御供して、山道をのぼり、信濃の上田の城を攻めて、忠政只一手にて搦手を攻破る、双なき高名とぞ聞えける、同き七年に御家號を給ひ、飛驒守に任じ、同十四年攝津守になり、十五年七月將軍家の仰として、親父信昌の加納の城の邊にて所領の地加へられ、當國にて四萬石を給ふと云ふ、本領共に六萬石を領せしにや、十九年十月二日、忠政三十五歲にて卒せらる、四男松平下總守忠明なり、忠明文祿元年十二月一說四年十歲にて、中納言殿の御前にて元服し、御家號幷御諱字を給ひ、また上野國小幡城を賜ひ、慶長五年四月叙爵し、七年三河國遠江國にて所領給ひ、累代相傳の地なりとて、三河の作手に居住せらる、十五年七月廿六日伊勢國龜山の城を給て移る、五萬石作手を領する事元の如し、女子は大久保加賀守忠常の室となる、されば此美作守信昌、我身の大名になれるのみにあらず、子息等みな大御所の御外孫なれば、盡く大名に成し給ひしかど、老後に三人まで男子を先立て、元和元年三月十四日六十一歲にして卒せられぬ、嫡子家昌は、別に宇都宮城賜て、嫡孫其家を繼く、二男右京大夫家治には世嗣なし、三男攝津守忠政の男ありければ、其孫に加納の城をば給りけり、十萬石忠政の男をも忠七郞と申す、御諱字給て、忠隆と名のる、忠隆七歲にて父にわかれ、八歲にて祖父信昌の跡を繼き、十四歲にて元服し、飛驒守に任ず、寛永二年五月廿七日祖母の加納殿、加納の城にてかくれ給ふ、御年六十六歲とぞ聞えける、同き九年正月五日、忠隆廿五歲にて卒し、世嗣なければ家絕たり、
大膳大夫平家昌、奧平と稱す美作守信昌の嫡男、宇都宮の城を領し、これより先の事は、父信昌の傳に見ゆ、慶長十九年十月十日年三十八歲にて、父に先立て卒せらる、其男僅に七歲にて跡を繼ぎ、成人の後、將軍家の御前にて元服し、御諱字賜りて叙爵し、美作守忠昌と申す、元和五年下總國古河の城に移る、十一万石同き八年再ひ宇都宮を領し、其後從四位下し、寛文八年二月六十一歲にて卒す、家人等が不法の事有て、家絕えぬべかりしを、別の義を以て子息大膳亮昌能に、出羽國山形の城を給ふ、九万石
下總守源忠明は、信昌の四男、大御所の御外孫なれば、次第に大名となつて、慶長十五年七月廿一日、伊勢國龜山の城を領す、是より先の事、信昌の傳に見ゆ、但し松平と稱せらる、同十九年十月六日、京都の早馬、駿河に來て、大坂の兵起る由を申す、また美濃國加納の城よりも飛脚到來して、松平攝津守忠政去る二日に卒すと申ければ、舍弟なれば下總守忠明、加納の軍勢を引具して、大坂に馳向ふべし、親父美作守老後の愁、何事か、是に若かん、其城に留て守るべしと仰下さる、去程に下總守忠明、美濃國の大名の旗頭として、先陣に進み、大坂の城に押寄せ攻む、再ひ兵起りしにも、同く美濃の軍勢引具して、大和路より押寄せ合戰して、首七十三切て獻る、其勳賞に、今年元和元年十一月廿八日、所領の地餘多つけて、大坂の城を守らせらる、十万石を領す、但し此時には大坂城を給りし樣にも聞ゆ同五年大和國郡山の城に移る、十二万石其後四位の侍從に成て、寛永十六年十二月、播磨國姫路の城に移る、十八万石正保元年三月廿五日、六十二歲にて卒し、嫡子鶴松丸家をつぎ、十五万石二男八郞左衞門所領の地を分つ、三万石八郞左衞門、今年十二月廿六日、世を早しければ、家絕ぬ、鶴松丸成人して、下總守に任し、清良と申す、後に忠弘慶安元年六月十四日、山形城に移る、其後四位に叙し、又侍從に任し、寛文八年八月三日下野國宇都宮の城に移る、何れも本領十五万石の儘
世に此家を長澤家といふ、大御所の御先祖和泉入道殿、第九の御子、松平源七郞親則、三河國長澤の城に住み玉ふ、親則七代の孫、長澤上野介康高1は、贈大納言家の御娘、大御所の御妹君を迎へ、源七郞康忠をまうけらる、康忠、文祿二年の冬卒し玉ひ、世嗣なし、大御所の御子上總介殿して其家を繼せらる、元和二年の秋、上總介殿流され玉へばこの下總守忠明を以て、其家を繼せらると云々、此事慥なる實紀に見えず、上總介殿長澤の家繼せ玉ふ事は勿論なり、上總介殿流され玉ひし時は、忠明既に大坂の城を守て、十万石を領せり。如何なるゆゑ有て上總介殿の御跡を受けしといふにや、覺束なし、但し此家の紋、奧平家と同しからぬは、如何さま故ある事にや、其家の系圖には、天正十六年忠明が六歲の時、大御所の御養子となされ、御家號下し給ふと載せたり、不審、
  1. — 지면 그대로. 통설로 家康의 이복 누이를 맞은 이는 松平康忠(上野介), 文禄2年 몰한 아들은 松平康直. 본문(世說 인용)은 한 세대씩 어긋남