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小笠原

第六 · 단락 6 · 780522 48코마 L부터

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지명 7 6 4 3 3 3 3 3 2 2 2 2 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1

兵部少輔秀政は、鎭守府將軍賴義の三男、刑部允義光より、新羅三郞是なり三代、信濃守遠光が嫡子、小笠原信濃守長清に十七代の後胤なり、秀政が祖父信濃守長時が時に當て、甲斐の源氏武田大膳大夫晴信と、互に國を爭ひ、戰ふ事年を重ね、天文廿二年五月六日、同き七日、桔梗が原の合戰に、信州に長時家子郞等二千餘人にたらで、深志の城に立籠る、晴信つゞきて攻ければ、此城にも、たまり得ず、武田に城をさけ渡す、晴信大に悅ひ、武田小笠原同し流れの源氏なり、何か苦しかるべき甲斐の國にて、所領一所、參らせんと曰せたり、長時聞て、我等が先祖兄弟より分る、武田は兄なれど甲斐に住し、小笠原は弟なれど都に在り、足利殿に近侍せしに依て、常に武田が下に立たず、今長時が時に至りて、彼家の被官たらん事、思ひもよらぬ事なりとて、越後をさして落ち行く、武田太郞信義は、加々美二郞遠光が兄なり、兩家その子孫たれば、かくは云ひしなり、奧の葦名に迎へられて、修理大夫平盛氏が事なり、我身は會津に下り住む、三男右近大夫貞慶をば、織田殿に參らせたり、天正十年の春、木曾左馬助義政、武田に背きて、織田殿に從ふ、三位中將信忠卿、信濃國を經て、甲斐の國に攻め入て、終に武田を討亡し、木曾が功莫大なり、其賞これ輕かるべからず、本領あれば、木曾郡はいふに及はず、同國深志の地をそへて下したぶ、幾程なくて、此年六月、織田殿父子また討れ玉ひ、甲斐信濃等の國々亂る、右近大夫貞慶、急き馳せ下りて、本國を討ち從ふべきよし、德川殿の御下知を承て、此由創業記に見えたり、夏目が記に德川殿の仰を蒙りし由は載せず、年比の郞等溝口美作壹人を召具し、信濃國に馳せ下り、まづ鹽尻といふ所に忍ひ居て、地下人等を催すに、累代の主君なりとて隨ふ者少からず、譜代の家子郞等馳加つて、程なく多勢に成りしかば、頓て木曾を討たんとす、義政暫しもたまりかね、深志をば貞慶にさけわたし、はう〱木曾へぞ逃げ歸る、此事始終夏目が記に詳なり貞慶二歲の時國を出て、今年再ひ本國に歸り入り、悅ふ事限りなし、やがて會津に使立て、父長時をむかへんとす、長時今しばしが程を生き延びず、近く召仕ふ小童のために刺れて死せしぞ無慙なる、かくて越後の上杉、當國に攻入るべしと聞えしかば、貞慶同國の住人高坂眞田等の人々と同しく、越後國に使者を參らせ、景勝に從ふ、景勝程なく、其勢四千五百人にて、信濃に越ゆ、また相州北條左京大夫氏直四萬八千餘騎の軍勢を引率し、上野國厩橋の戰に打勝て、織田の大將瀧川左近將監一益を打破りしなり、碓氷の峠を打越えて、是も信濃に打入たり、貞慶を先として、高坂眞田等、北條の多勢をや恐れけん、忽に上杉を背きて、北條に從ひ、景勝と戰はんと、屋代川中島を經て、善光寺に向ひて、陣を取る、景勝筑摩川を打渡て進み來る、北條かねてば1高坂源五郞が裏切を恃みてこそ、こゝまでは打出たれ、此事既に顯はれ、高坂誅せられぬと聞えけり、かけあひの軍に、上杉と戰はん事叶べからずとや思ひけん、此處より引返して、甲斐國に入て、德川殿と戰ふ、初め德川殿、小笠原が本國を打從へしと聞召て、さらば加勢あるべしとて、奧平九八郞信昌に餘多の軍勢つけて差向らる、貞慶既に德川殿にも背きまゐらせて、北條に組みしければ、奧平も途より引て歸る、同き九月貞慶三千餘人を率ゐて、川中島に打ち出て、龍王の城を襲うて、上杉大將清野入道が爲に清就軒と云破られて、鹽尻に引返す、同國の住人保科彈正忠正直、德川殿の御方して、貞慶が陣に押寄せて戰ひ、首餘多切て獻らせたり、さる程に、北條氏直、甲斐の國に打入り、同き左衞門大夫氏勝が兵を合て、都合其勢五万五千、德川殿の御勢七千人に向て、今年七月の初より、十一月に至るまで、大小の戰七十餘度、終に一度も勝つ事を得ず、貞慶此程鹽尻に陣取て、此由を見て、いや〱北條が軍のやう、心にくからずと思ひ、また北條を背きつゝ、再ひ德川殿の御方にこそ參りけれ、氏直も德川殿に中直りし、本國にぞ引返さる、同き十二年、德川殿北畠殿を援ひ玉ひ、秀吉と軍起る、此頃より貞慶また眞田と同しく、秀吉と心を合す、十三年十一月、石川伯耆守數正、岡崎を去て秀吉へ參し時、貞慶が人質をも引具して行く、かねて貞慶といひ合せし旨ありとぞ聞えたる、案の如く十二月、貞慶兵を起して、高遠の城に押寄せ、爰かしこの村〱に放火して引返す、明れば天正十四年の夏、德川殿關白と御中直りし事なれば、貞慶また德川殿に就さて2殿下に見參仕るべきよしを申す、十五年の正月、酒井左衞門尉忠次、小笠原眞田を具して上洛せり、同き十八年、關白殿、北條を伐ち玉ひし時、貞慶忽に罪蒙る、其故は、關白の御家人に尾藤甚右衞門尉といふ者あり、讃岐の國半を賜ふ、去りし天正十五年、筑紫の合戰に、不覺の軍せし罪に依て、其所領を沒收せられ、貞慶が許に忍び居たり、今年北條討るゝに及びて、年頃既に經ぬ、今は何事かあるべきとて、貞慶尾藤を具して、關東に向ふ、關白此由を聞召し、怒り玉ふ事大方ならず、尾藤忽に誅せられ、貞慶所領を収公せらる、
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一說に初め筑紫の合戰に、仙石權兵衞尉尾藤甚右衞門尉二人ながら罪を得て、所領を沒収せられ訖んぬ、小田原の軍に及び、仙石は忍んて、關白の御陣に從て軍して高名し、尾藤は城にこもる、城落て尾藤をば捕へて誅せられ、仙石には所領を賜ふこと元の如し、按ずるに小笠原が尾藤に坐せられて所領收公せられし上は、本文にしるせるが如くなるべし、尾藤が城に籠れるといふは誤れるにや、但し尾藤城にこもり、城落ち捕へられて年比いづくにありしやと糺問せられて、日頃は小笠原が許に在りしが、此度城に籠て居たりといひし故に、小笠原も罪重くなりて、所領沒收せられしにや、關白が勘當の人を軍中に伴ひしといふ斗りには、さ程の罪にはあらず、それも又關白の我威を立てんが爲に、是程の事をも、かく重く罪せられしも知らず、
今年德川殿關東に移らせ給ふ、貞慶が男兵部少輔秀政は、德川殿の御嫡子故岡崎殿の御姫に添ひ奉りたりければ、關白殿も別の義を以て御免ありしに因て、德川殿の御家人になされ、下總國古河の城を給ふ、二万石を領す、○按するに今年德川殿の御孫女御年十四歲、秀政の年廿二歲なり、既に御婚儀事なりしにや、また御約斗りありし事にや分明ならず、文祿四年五月十日、貞慶古河の城に卒す、兵部少輔秀政關が原の戰には宇都宮の城に留る、秀政は三の丸を守る云ふ慶長十八年信濃國松本の城に移る、六万石、松本即ち深志なり、此時に改て松本といひしとなり、一說に此時八万石と云、不審、秀政重ねて先祖累代の所領を知行す、元和元年五月七日攝津國天王寺の合戰に討死す、年四十七歲、嫡子信濃守忠脩、大御所の御外曾孫、又忠脩が妻も同き御外曾孫にて、本多美濃守忠政が娘なり、初め大坂の兵起りし時、父秀政は松本の城に留り、忠修大坂に向ふ、再ひ兵起りしに、我身松本の城に留り、父秀政向ふべしと仰ありしかば、忠脩大に憤て、御下知をも用ゐず、馳上つて、五月七日、父が手の眞先かけ、大勢の中へ割て入り、敵の陣を打破り、かけ通り〱、散々に戰て終に討れて死したりけり、其子信濃守長次、父に繼ぎ、寛永六年の冬、叙爵し、同九年豐前國中津の城に移る、八万石同十五年の春肥前國嶋原の城を攻めて攻落し、寛文六年五月廿九日卒す、嫡子上野介長知年來多病なりとて、父が卒せし年籠居しければ、二男内匠頭長勝父が家督を繼て、同き十二月廿七日信濃守に成る、
右近衞將監源忠眞は、秀政の二男、大御所の御外曾孫なり、生年十八歲、いまだ大學助と云ひし時、父と同しく大坂に向ひ、五月七日合戰に大勢の敵と戰て、あまた重手負ひ、首餘多切て、双なき高名を極む、兄信濃守が子息なほ襁褓の中にあれば、成人の程は、忠眞彼の家の事知行すべき由を仰下さる、辭し申けれども御許なし、僅に一年を隔て、元和三年に至て固辭す、彼が志の程を感し玉ひ、其請に依て、故信濃守が遺領は、其息男に給ひ、播州明石の郡に新に城築かれて、多くの地つけて、忠眞にぞ給ひたりける、十万石寛永九年十一月十一日豐前國小倉の城に移る、十五万石、按するに此時小笠原の一族、豐前豐後の地に移さる、九國鎭守の爲と申せしなり、十一年七月十六日に、従四位下に叙す、十五年の春、嶋原の城を攻落し、寛文三年十二月廿九日、侍従兼右近衞將監、また九州探題の事を承る、同七年十月十八日、七十三歲にて卒す、嫡子兵部少輔長安は病あつて籠居し、狂氣と二男大和守長宣は先立て卒す、三男遠江守長眞を嗣として家を繼がせ、四男備中守長貞に所領の地を分つ、一万石新墾田
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壹岐守源忠知は、秀政が三男、左大臣家に昵近し、寛永三年十二月、大番の頭となさる、同九年四月廿四日、御奏者の事をかね、此頃は番頭より御奏者を兼ねしなり、今年十月十一日、豐後國杵築の城を給ふ、本領は五千石、一時に四万石給ひ御奏者は元の如し正保二年正月十一日、三河國吉田の城に移る、四万五千石、小笠原が一族皆豐前豐後の間にあり、此度忠知を三河國に移されしは、特ある御恩と云云、寛文三年七月廿九日、六十五歲にて卒す、嫡子山城守長棟1父に繼き、四万石舍弟等に所領を分つ、二男丹後守長定、三千石、三男外記二千石、寛文六年六月長棟、寺社奉行と成て、御奏者の事を兼ぬ、延寶六年二月八日五十五歲にて卒す、嫡子能登守長治2父に繼き、壹岐守と成る、二男佐渡守長重なり、
  1. — 지면 그대로. 小笠原忠知의 뒤를 이은 아들(寺社奉行, 延宝6年 몰)은 통설 小笠原長矩
  2. — 지면 그대로. 長矩의 뒤를 이은 아들은 통설 小笠原長祐