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小笠原

第六 · 단락 1 · 780522 52코마 R부터

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이 가문에 자주 나오는 인물·지명

인물 8 4 3 3 3 2 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1

지명 3 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1

掃部助源信嶺は、信濃守長清が後胤なり、長清が十代孫小笠原大膳大夫入道政康に男子三人あり、嫡子大膳大夫持長は、兵部少輔秀政が八代の先祖なり、二男彥五郞宗康、三男伊奈六郞光康とぞ申ける、新編纂圖には、光康は見えず、三男六郞左衞門尉家長と載せたり、光康より五代の孫、下總守信貴は信嶺が父なりけり、累代信濃國松尾の城に住す、武田大膳大夫晴信、信濃國を打從へし後は、おのづから其被官となる、天正十年の春、木曾左馬助義政、織田殿の御方に參る、同二月十二日三位の中將信忠、信濃國を經て、甲斐に攻入らんとし玉ふ、同十四日掃部助信嶺、信忠の御陣に參る、則ち當國の案內者たるべしとて、先陣を承て、高遠の城を攻落す、三月十八日信長高遠の城に入り玉へば、同廿日信嶺も見參して、本領安堵の事を仰せ蒙る、安土記等に、松尾の掃部助とあるは、信嶺が事なり、今年六月信長父子討れ玉ひ、甲斐信濃の國々再ひ亂れしかば、信嶺最初に菅沼藤藏定政に後に土岐山城守と云附て、德川殿に御方に參り、同き七月酒井左衞門尉忠次と共に、高島の城を攻む、天正十六年德川殿の仰として、忠次が三男小平治を養て世嗣とす、左衞門佐信之是なり、同き十八年關東に移り玉ひて、武藏國本庄を賜ふ、一万石なり慶長三年二月十九日、信嶺五十二歲にして卒す、左衞門佐信之、家を繼く、此後美濃國の高須の地を賜てぞ移りける、關が原の戰には、中納言殿の御供して、山道をのぼる、同き十二年伏見の城を守る大坂の軍には、將軍家の先陣うつて戰ふ、其子左衞門佐政信、政信が子貞信、信之より此かたの卒年、いまた詳ならず、