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遠藤

第九上 · 단락 9 · 780524 48코마 L부터

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但馬守平慶隆は攝津國の渡邊黨遠藤の後胤なり、兵庫頭盛政が時に及て、其母土岐美濃守光衡が女なりければ、所緣に付て、美濃國に移る、子孫終に土岐が被官とは成りたるなり、遠藤新兵衞尉胤好が時に及び、織田上總介殿當國を併せられし時、胤好最初に味方にぞ參りける、胤好嫡子新兵衛尉胤緣は、父に繼て、二男太郞左衞門尉盛數は、東下野守常慶が家を繼くなり
世に云ふ所、遠藤の家系、其說同からず、一には遠藤太郞左衞尉盛數、實は胤好が子、常慶其女に配せて、家讓りぬと、見えたり、常慶が讓を得て、其家を繼かんには、東とこそ名乘るべけれ、遠藤と名乘る事、心得られず、又一說には、遠藤は桓武平氏、其祖遠藤左近將監望任が子遠藤武者盛任が後、盛任十九歲にして出家す、文覺坊則是なりと見えたり、按ずるに文覺坊は、攝津の國渡邊黨にて、遠藤左近將監盛光が孤子、十三歲に成りける時、一門遠藤次郞瀧口遠光と云ふ者、元服させて、父盛光が盛を取り、鳥帽子親遠光が遠を取て、盛遠と名付けしとは見えたり、其父の名、望任にもあらず、又其俗名の盛任なるにもあらず、又文覺坊の子ありと云ふ事も心得られず、思ふに、是れ文覺坊が一門なる遠藤が後なるを、かく誤り傳へしも知るべからず、又遠藤氏は、藤氏の由、見えたり、桓武平氏なるべき事も、亦心得られず、但し美濃國の遠藤は、平氏也と云ふ事、東が家を繼きしに依れる歟、其家の說を聞かざれば、如何とも分つべからず
慶長五年の秋、東西の軍起りし時、當國の人々、多くは大坂の催促に從て、岐阜中納言秀信の手に從ふ、慶隆思ふ所あれば、其催促に從はず、斯る所に、德川殿の仰として、榊原式部少輔康政が許より、急き東國に組し參らすべき由、傳へければ、慶隆大に悅ひ、頓て東國の味方として、纔なる勢を以て、一族を離れ、多くの敵の中に在て、軍を起す、先祖累代の傳領なれば、郡上の郡、下し給はらんには、速に八幡の城、攻め取るべき由、金森法印に付て、關東に申す、法印が子出雲守可重は慶隆が婿なればなり德川殿、本領安堵の御敎書を成されて、法印が子息出雲守可重、加勢の事承り、夜を日に繼て、馳せ登り、慶隆が許に牒し合せ、終に八幡の城を攻め下す、程近ければ、先づ此由を中納言殿のおはします諏訪の御陣に告け申す、御消息賜て、速成の功を賞せらる、慶隆が一族にて、婿なりける同き小八郞胤直が、當國大地と云ふ所に在て、上方に組せしをも、終に攻め伏てこそ降してけれ、
其系圖を按ずるに、遠藤太郞左衞門尉盛數が兄同新兵衞尉胤緣、其子大隅守胤基、文祿二年、朝鮮に押渡り、彼地の軍中に死す、其男小八郞胤直と云ふ、慶隆は此胤直が家承けし樣に見えたり、いぶかし、慶隆は盛數が子と見えき、然れば小八郞が父大隅守胤基と、慶隆とは、從弟にして、小八郞又慶隆が第二の娘を妻とせる也、或記に太閤の時、慶隆が本領二萬六千石の地、二つに分て、慶隆には小原の地七千五百石、大隅守胤基には、大地の地一萬八千五百石を賜ひしかば、慶隆安からぬ事に思ひし故、此度も大坂の催促にも從はず、東國に組して、終に本領を合せ領したりと記しぬ、此說の如くならば、慶隆小八郞胤直が家を繼きしにあらず、系圖に見えし樣は、慶隆小八郞が家を合せ領せしと云ふ事なるべし、但某が見し系圖に誤あるにや、
德川殿程なく當國に攻め入り給ひ、赤坂に御陣を召されしかば、慶隆御陣に馳參て見參に入る、御太刀御馬并土產等を獻る關が原の戰の時には後陣を固めしと也關が原の軍散して後、御敎書の旨に任せ、八幡の城賜て再ひ累代の所領を安堵し、二万六千石同九年叙爵して、但馬守に成され大坂の兵起りし時、馳向ひ戰て、首六十八切て獻る、慶隆年積て八十三歲、寛永九年三月廿一日に卒す、其男長門守慶勝、二十八歲にして、元和元年、父に先立て卒す、前飛驒の國司姉小路大納言自綱卿の男三木右近大夫直綱が子、慶隆が外孫なれば、養て家繼がす、但馬守慶利是なり慶利が子備前守常季、常季が男外記常春、右衞門佐に任し、從五位下に叙す、