久兵衞藤原友政は、河邊の左大臣魚名公の苗裔、鎭守府將軍利仁八代の孫、加藤次景廉が男、遠山景朝が後胤なり、累代の先祖、美濃國遠山に住して、末流七つに分れしかば、七遠山とは申しけり、友政父祖の跡を繼て、苗木の城にあり、其後所領を失て、三河國に落ち來り、德川殿に仕へ奉り、菅沼小大膳定利が手に屬られたり、或書に友政初め美濃守護齋藤右兵衞佐龍興に屬しければ、信長の爲に亡されしと記す、不審、天正十年、信濃の木曾、武田に背き、苗木久兵衞に付て、信長に心を通せし由、安土日記信長記等に見えたり、此年信長も討れ給ひし上は、信長の世を終る迄は、久兵衞は苗木に在りしにや、又一說に秀吉の御時に、所領失ひし由、申傳ふ、秀吉美濃の屋形信孝を、討ち參らせられし時の頃にや、其系譜を見ざれば詳ならず、又甲陽軍鑑にも、苗木が事、所々に見えたれども、分明ならざる歟慶長五年の秋、石田等が兵起て、東山東海兩道より攻下るべしと聞ゆ、友政急き本國に馳せ向ひ、地下人等催し、敵の要害を攻め破り、山道を開き、中納言殿の御勢を迎ひ奉るべしと望みければ、申す所神妙なりとて、御許しを蒙り、夜を日に繼て、馳せ上り、地下人等を催すに、累代の地頭なりければ、招かざるに、馳せ集る者引も切らず、友政大に悅ひ、軍勢を引具して、敵の要害、此處彼處攻め破る