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第九上 · 단락 5 · 780524 46코마 R부터

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인물 12 8 5 5 4 3 3 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

지명 4 3 3 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

左京亮源政壽は累代の先祖、伊勢國に住して、當國安濃奄藝兩郡の主長野が家の被官たり、其系圖を見ねば委き事を知らず永祿十一年の春、織田殿、伊勢國を討たんとて、先づ細野の城を攻めらる、左京亮政壽、河北內匠助と打連れて、信長の御陣に參り向つて、申けるは、抑も長野の家と申すは、工藤左衞門尉祐經が二男薩摩守祐長が子孫、元弘の初、當國安濃郡を領して、長野の地に住せしより、長野とは名乘てけり、
北條既に亡ひ、尊氏將軍の時に至て、安濃奄藝兩郡の地頭職を賜はり、手に從ふ所の軍勢、凡五千人、國司北畠殿と地を爭ふこと、代々を經て、左衞門尉祐則が代に及ひ、國司源中納言具敎卿と中直りし、彼が二男申請て、己が家を繼がす、今の長野次郞具祐と申す是なり、彼既に工藤が後胤に非れば、一族の間も快からず、あはれ長野が家、絕えざらんやうを計らはせ給はらんには、政壽等、如何にも計て、彼が一族郞從等、皆々味方に參らすべきにて候とぞ望みける、織田殿大に悅ひ給ひて、頓て舍弟信包を長野上野介と名乘らせ、軍勢餘多差添へ、當國上野の城にすゑ置かる、去程に、長野次郞具祐、長野の城にたまり兼ね、父の國司を賴て、多氣の郡に落行く、雲林院草生家所細野乙部中尾の者共、降人に成て參りしかば、分部河北を初として、悉く皆信包の手にこそ附られけれ、其後織田殿失せ給ひ、秀吉世を知し給ひし後、文祿の初、上野介信包信包此比は本性に返て織田と名乘り關白の執奏にて四位侍從に成されし也聊の事に罪せらて本領を押奪れ、近江國に移されし時、二万五千石を給り、入道して老犬といふ關白別の仰ありて、左京亮政壽に、上野の城をば賜りけり、二万石慶長五年の秋、政壽德川殿に從て、奧に向ふ、上方にも亦軍起りぬと聞えしかば、政壽東國の御方として、富田信濃守知信と打連て、本國に馳歸る、上方の軍勢、伊賀國を平けて、伊勢國に向ふと聞ゆ、上野は要害無碍に淺間にして、一日が程も、怺へつべうも覺えずとて、己が城を捨て富田が安濃津の城に入て、城の東を固めたり、斯て數万騎の寄手、伊勢國に打入て、富田が城に攻近づく、政壽手の者引具して、打て出て、散々に戰ひ、自らも槍取て、敵を討つ事、數を知らず、我身も數多痛手負ひ、能き敵と組て討死すべしとて、胡床に坐して待居たり、富田が郞從馳來り、樣々に敎訓して、城中にぞ助け歸りける、去程に、寄手の多勢押寄て、城の四面を打圍み、入替々々攻めし程に、味方多く打死し、敵此處彼處に攻め入たり、かゝる所に、高野山木食の上人、來合ひて、敵味方を制して、軍を止め、色々に拵へしかば、富田は城を去りにけり、政壽同しく爰を出づ、關が原の戰、終て後、勳賞行はれ、所領倍して賜る、二万石政壽女子のみ有て、男子無ければ、其外孫を養て家繼がす、左京亮光信とぞ申ける、政壽卒せし年月未た知らず
光信大坂の軍に從ひ、首五十を切て獻る、光信が代に當りて、近江國大溝の地賜て移る光信が卒せし年月、未た聞かず、又所領の地うつりし年月詳ならず、或說に慶長十年に移されしとも云なり其子伊賀守嘉治、父に繼て、明曆四年六月十日三十二歲にして橫死せり、其子若狹守嘉亮、父に繼く年十九歲にして、寛文七年六月十二日に卒し、世嗣なかりしに依て、池田修理亮長信が子、養て世嗣とす、寛文七年十二月廿七日、叙爵して隼人正に任し、信政と名乘る、