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遠山

第九上 · 段落 3 · 780524 47コマ Lから

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この家によく出る人物・地名

人物 8 4 3 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

地名 6 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1

久兵衞藤原友政は、河邊の左大臣魚名公の苗裔、鎭守府將軍利仁八代の孫、加藤次景廉が男、遠山景朝が後胤なり、累代の先祖、美濃國遠山に住して、末流七つに分れしかば、七遠山とは申しけり、友政父祖の跡を繼て、苗木の城にあり、其後所領を失て、三河國に落ち來り、德川殿に仕へ奉り、菅沼小大膳定利が手に屬られたり、或書に友政初め美濃守護齋藤右兵衞佐龍興に屬しければ、信長の爲に亡されしと記す、不審、天正十年、信濃の木曾、武田に背き、苗木久兵衞に付て、信長に心を通せし由、安土日記信長記等に見えたり、此年信長も討れ給ひし上は、信長の世を終る迄は、久兵衞は苗木に在りしにや、又一說に秀吉の御時に、所領失ひし由、申傳ふ、秀吉美濃の屋形信孝を、討ち參らせられし時の頃にや、其系譜を見ざれば詳ならず、又甲陽軍鑑にも、苗木が事、所々に見えたれども、分明ならざる歟慶長五年の秋、石田等が兵起て、東山東海兩道より攻下るべしと聞ゆ、友政急き本國に馳せ向ひ、地下人等催し、敵の要害を攻め破り、山道を開き、中納言殿の御勢を迎ひ奉るべしと望みければ、申す所神妙なりとて、御許しを蒙り、夜を日に繼て、馳せ上り、地下人等を催すに、累代の地頭なりければ、招かざるに、馳せ集る者引も切らず、友政大に悅ひ、軍勢を引具して、敵の要害、此處彼處攻め破る
關が原の諸記に記す所、まち〱なり、一說には、此時苗木の城をば川尻肥後守直次、領しけるが、川尻當時大坂に在り、留守の勢、少々城に在り、遠山押寄せ戰ひ、終に城を攻め落すと云々、一說に苗木の城を、關次兵衞某守て、中納言殿、山道を登らせ給ひし時、落合と云ふ所に着かせ給ふを見て、道の傍の山の端より、足輕少々出して鐵砲を打掛けしかど、海道の軍の手合あるべしとて、馳せ登らせ給ふ故に、打捨て通らせ給ふ、敵もとより無勢なれば、御跡を慕ふ迄もなく、引て入ると云々、一說に、關は川尻が家人にて、苗木に留り守りし者とも云ふ、かく諸說區々にして、未ざ遠山家に傳へる所を聞かざれば、本文には只其大略をしるしぬ、