越前守源秀久は、初め權兵衞尉と申て、豊臣大閣の未だ羽柴筑前守と申て、播磨國を領せられし時、天正九年の冬、織田殿の仰を請て、淡路の國を攻めらる、安宅河內守降參して、未だ彼國の守護を置くにも及はず、同き十年の夏、信長失せ給ひ、秀吉世の事を知られしに及て、淡路國須本の城を以て、この秀久に賜ひぬ、是れ年來の武功を賞せられし所なり、同き十三年の夏、四國の地を攻められしに、秀久先陣して、讚岐國を賜て移る十四年の夏、薩摩の嶋津、關白の仰に隨はず、豊後の大友、亡さんとそと聞えしかば、秀久御使を承り、長曾我部土佐守元親と共に、四國の軍勢を引率して、豊後の府に押渡る、秀久先づ嶋津が許に、使立て、重て關白の仰を傳へけるに、嶋津其使からめ取て、返荅にも及はず、肥後の國を經て、豊後國に亂れ入り、大友が城を攻め落し、戶次利光、鶴が城の戰、旣に難儀に及ぶ由を聞て、事既に急なり、殿下の仰を待つまでもあらずとて、秀久元親、大友が軍勢を隨へ、戶次の城の後卷す、十二月十二日の朝、戶次川を打渡て、嶋津が勢と戰ひ、味方散々る打2なされ、元親が嫡子信親打死す、字は彌三郞關白此由を聞召し、安からぬ事かな、先陣の輩、妄に合戰すべからず、如何にも敵をあひしらうて、秀吉が向はんを、待てとこそ云つれ、夫に四國の奴原が、そゞろなる軍して、手合の合戰に、打負ぬる事の、不覺さよ、信親討死せし上は、父元親が罪をば、暫く免しぬ、仙石めが所帶、沒取せよとて、讚岐國を奪て、尾藤甚右衞門尉に賜て、筑紫の先陣を賜る、明れば十五年の春、殿下自ら筑紫の地に御發向あり、九國の大名等、冑を脫ぎ、弓の絃をはづして、降人に成て參る者、引も切らず、嶋津は猶も參らず、同き四月廿三日、日向の國耳川3の合戰に、宮部の法印、嶋津が勢を討ち破り、逃ぐる敵を追詰て、討留めんと、はやりしに、尾藤が固く制しければ、宮部一勢、進むに及はず、關白この由を聞召し、以の外に氣色損し、臆病なる尾藤めが振舞かな、官部と1同しく戰はぬだに、あるものを逃ぐる敵、討ち留めぬ事やある、しやつめも、又國奪へとて、是も讚岐國を沒収せらる、嶋津終に戰に堪へずして、降人になつて、出ければ、九國悉く平きぬ、筑紫陣の事は、嶋津が傳に詳なり、十八年、關白また相摸國北條を亡し給ひし時、秀久忍ひて御供にぞ侍ける、尾藤は罪蒙て後、信濃國に下りて、小笠原右近大夫貞慶が許に隱れ居て、今は年旣に經ぬ、何事かあるべきと、小笠原が手に隨ひ、軍して御陣には參らず、關白仙石が振舞、神妙の至りなりとて、信濃國小諸の城に、地數多附て賜り、六万石とも云、又五万七千石とも云尾藤めが年でろ我が大恩を蒙りし奴ぞかし、斯る時、陣頭に來りて、罪をも謝し、恩をも報ずべき事にこそあんなれ、憎き今の振舞かな、しやつめが首、刎ねよとて、忽に誅せられ、小笠原も所領沒収せられぬ、尾藤か事、委しく小笠原か傳に見ゆ慶長五年の秋、秀久德川殿に隨て、奧州に發向す、上方又亂れしかば、中納言殿山道を攻上らせ給ふに極つて、秀久又彼の御手に隨ひ、下野國より引返へす、爰に信濃の眞田、上方に與みし、上田の城に楯籠る、東國の御方に、力合せんとする當國の大名等は、眞田と合戰すべしとて、悉くに止めらる、秀久また己が小諸の城に止て、上方の戰にはあはず、秀久卒して、卒せし年月未た知らず其子兵部少輔忠政繼く、將軍家の御諱字賜りしにあらずや大坂前後の軍に隨て、首十一切て獻る、元和八年、同國上田の城に移りて所領の地加へ賜ふ、一万石加へられ此時に六万石を領すと云然れば初め六万石を領せしと云ふは誤れる歟寛永五年四月廿日、忠政卒し、其子越前守政俊、家を繼き、同き十一年十二月廿八日叙爵、寬文九年二月廿五日致仕、入道して道休と號し、延寳二年七月廿四日、五十八歲にて卒す、政俊男子二人あり、嫡子兵部少輔忠俊、父に先立て卒しければ、嫡孫主稅政明を世嗣とし、二男治左衞門某に所領分つ、二千石主稅政明、祖父に繼て立つ、
- 官部と — 지면 그대로. 「宮部」의 저본 오식으로 보임
- 散々る打 — 지면 그대로. 「散々に打なされ」의 저본 오식으로 보임
- 日向の國耳川 — 지면 그대로. 天正15.4 日向 싸움은 통설 根白坂 싸움(4.17, 高城 구원전)이고, 耳川 싸움은 天正6(1578)