左京大夫藤原勝俊は、伊勢守治持が二男、兵部大輔正村が弟なり、鎭守府將軍秀鄕七代の孫、近藤武者所景賴が嫡子左近將監能成が二男仲敎、田村と名乘り、四男親實水谷と名乘る、仲敎伊賀守に任ず、其子刑部大輔仲能、關東の評定衆となる、其子淡路守重輔、又水谷と名乘る、左京大夫勝俊は、この重輔が末葉とぞ聞えける、重輔が子孫、世々陸奥國猿田の城に住す、猿田館殿と云猿田亡て後、下總國に移りて、結城が家に仕ふ、永亨十一年1、鎌倉殿持氏の御事討れ給ひし後、二人の若君、春王丸安王丸下野國日光山に忍て、おはせしに、討手向ふと聞えしかば、結城中務大輔氏朝を賴ませ給ふ、氏朝昔の契を忘れかねて、己が城に迎ひ參らせんとす、水谷伊勢守を此人の名定かならず初め、宗徒の家人等、梁田修理亮、同將監、黑田民部亟等なり此を諫めかねて、四人同く髻を切て、世を遁る、水谷は亂を見て其國を去らんこと、弓矢取る身の道に非ず、此上は力無し、同く討死すべしとて、道より取つて返し、城中にぞ籠りける、斯て鎌倉の上杉兵庫頭清方、將軍家普廣院義敎公の御旗を賜り、軍勢を率ゐて、城を攻む、嘉吉元年四月、城終に落され、氏朝を先として一族郞等、悉く討れにけり、去程に、上杉は水谷が振舞を深く感し、彼が子孫求め出して其家を繼せらる、
- 永亨十一年 — 지면 그대로. 「永享」의 저본 오식으로 보임