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水谷

第九下 · 段落 3 · 780524 64コマ Lから

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この家によく出る人物・地名

人物 5 4 4 3 3 3 3 3 2 2 2 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1

地名 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1

左京大夫藤原勝俊は、伊勢守治持が二男、兵部大輔正村が弟なり、鎭守府將軍秀鄕七代の孫、近藤武者所景賴が嫡子左近將監能成が二男仲敎、田村と名乘り、四男親實水谷と名乘る、仲敎伊賀守に任ず、其子刑部大輔仲能、關東の評定衆となる、其子淡路守重輔、又水谷と名乘る、左京大夫勝俊は、この重輔が末葉とぞ聞えける、重輔が子孫、世々陸奥國猿田の城に住す、猿田館殿と云猿田亡て後、下總國に移りて、結城が家に仕ふ、永亨十一年1、鎌倉殿持氏の御事討れ給ひし後、二人の若君、春王丸安王丸下野國日光山に忍て、おはせしに、討手向ふと聞えしかば、結城中務大輔氏朝を賴ませ給ふ、氏朝昔の契を忘れかねて、己が城に迎ひ參らせんとす、水谷伊勢守を此人の名定かならず初め、宗徒の家人等、梁田修理亮、同將監、黑田民部亟等なり此を諫めかねて、四人同く髻を切て、世を遁る、水谷は亂を見て其國を去らんこと、弓矢取る身の道に非ず、此上は力無し、同く討死すべしとて、道より取つて返し、城中にぞ籠りける、斯て鎌倉の上杉兵庫頭清方、將軍家普廣院義敎公の御旗を賜り、軍勢を率ゐて、城を攻む、嘉吉元年四月、城終に落され、氏朝を先として一族郞等、悉く討れにけり、去程に、上杉は水谷が振舞を深く感し、彼が子孫求め出して其家を繼せらる、
  1. — 底本のまま。「永享」の誤植とみられる
其後子孫、長亨元年1始て常陸國下舘の城を搆て住む、誰か代と云と定かならす伊勢守治持に至て、男子二人あり、嫡子兵部大輔正村入道して、蟠龍齋と號し、武勇の名譽、東國に隱れなし、年積て七十六歲、慶長三年六月廿日に卒しけり、入道女子一人あり、結城左衞門督晴朝の室にして是結城中納言殿の御養母なるべし其餘家繼くべき男子なく、舍弟左京大夫勝俊、家を繼く、豐臣關白世を知し召されしより、彼の御家人になされて、本領を安堵す下館二万五千石とも又三万石とも云慶長五年の秋、東西一時に軍起る、德川殿の仰を承て、己が城を守る、其後天下悉く德川殿に隨ひ參らせ、三河守殿、越前國を賜らせ給ひし時、水谷多賀谷山川岩上の者共は、もと結城の家の四天王なればとて、大御所の仰として、皆守殿に属けられ、越前國に移る、勝俊が甥同織部某を、守殿には參らせたり、勝俊又本領を賜て、下舘の城を領す、卒せし年月未た知らず其子伊勢守勝隆、父に繼く、五万石領す、この内二万石は檢地して得る所といふ大坂前後の軍に、將軍家に隨ひ奉りて、首五つ切て參らせ、寬永十六年十二月、備中の國松山の城賜て移る、本領の儘寬永四年閏五月三日2、年六十八歲にて卒す、嫡男左京亮勝宗繼き、四万八千石を領し、二千石をば舍弟に分つ、其後又開發の田を合せて、五万石となりしとなり舍弟新右衞門某に、所領を分つ、二千石
  1. — 底本のまま。「長享」の誤植とみられる
  2. — 底本のまま。水谷勝隆の没年は通説では寛文4.閏5.3(1664)。前の寛永16松山移封の後のため寛永4は成立しない