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那須

第九下 · 段落 4 · 780524 65コマ Lから

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地名 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

遠江守藤原高春は、左京大夫資景が世嗣なり、實は增山彈正忠正利が舍弟、右大臣家の御外叔父にて、始め增山右衞門大夫とぞ申ける、承應元年二月十八日、資景が請に因て、其家の嗣と定められ、遠江守に改め任ぜらる、高春自らの所領に、那須が家領、兼ね并て領しぬ、那須が家領七千石、高春か所領五千石、都合一万二千石を領すと、承應日記に出つ抑もこの那須の家と云ふは、御堂關白道長公の曾孫、須藤權守貞信が後胤なり、貞信初て下野國那須郡を領す、貞信が六代の孫、那須太郞資隆、十二人の男子あり、十男戶福寺十郞爲隆、十一男那須與市宗隆、兄弟は右兵衞佐源賴朝朝臣に隨ふ、其餘の男は、悉く平家に屬す、與市後に改て資隆と名のる、大夫判官義經に隨て、讃岐八島の戰に、扇の的を射て、源平兩家に名を顯す、其賞として丹波の五賀庄、信濃の角足庄、若狭の東宮川原、武藏の大田庄、備中の繪原庄等の地頭職を賜ひ、又兄の十郞爲隆、義經の命に背きしに依て、弟の宗隆、那須の家を繼く、宗隆死して子なかりしかば、右大將家の仰として、兄の五郞之隆、家を繼て、資之と改む、資之子無くして、宇都宮が子養て、家を讓る、右大將家、鳥帽子着せ給ひて、賴資と召され、肥前守になさる、其子肥前守光資、右大將家、那須野の御狩の時、長倉に屋形うつて御儲けす、光資が四代の孫、備前守資藤、足利殿に尊氏隨て、東寺の合戰に討死す、其子越後守資世、其子刑部大輔資氏、鎌倉殿の仰として、沙汰所を承る、系圖には資世少將に任し、資氏四位の侍從に任すと云々、覺束なし、那須が屋形號、許されしも、此頃の事に非ずや、資氏十三代の孫修理大夫資晴、是れ左京大夫資景が父なりけり、資晴初め那須太郞と名乘る、先祖累世岩城白川佐竹宇都宮と、互に地を爭ひ、戰を合す、資晴が時に至り、天正十三年三月廿五日、宇都宮下野守國綱と、薄羽原に戰ひ、國綱が多勢を打破り、其勢に乘して、喜連川鷲宿等の大小の城五六箇所を攻め取て、近隣に威を震ふ、同き十八年、豊臣關白、相摸國に發向あり、東國の大名等、御陣に馳せ參る者、引きも切らず、那須が一族家人等も、同く小田原に馳せ參る、北條既に亡ひ、奧に下り給ふとて、當國に御陣を召れしに及びて、資晴初て見參す、殿下資晴が遲參を怒り給ひ、那須が本領、悉く彼の一族家人等に割き與へて、大田原、大關、育王野、福原、芦野、千本等資晴僅に福原の地をぞ賜ひたる、朝鮮の軍起りて、催促に隨ひ、軍勢少々引具して、筑紫の名護屋に馳せ參る、慶長五年の秋、東西一時に軍起りし時、資晴德川殿の味方として、宇都宮の城に、人質を參らせ、奥方の上杉と戰はんとす、天下既に德川殿に歸して後、同き七年の頃より、資晴常に大御所に伺候して、所領の地を加へられ、何程と云ふこと知れずこの時一万七千石に至りしにや同き九年、大膳大夫從五位下になされ、今年又改て修理大夫に任す、同き十五年五十四歲にて卒す、
按ずるに、結城左衞門督晴朝の女子、一人は江戶但馬守が妻、一人は那須太郞が妻なり、晴朝江戶が娘を子として、三河守殿に配せ參らせ、家を讓らる、然れば、資晴は三河守殿の御相婿にて、三河守殿の御子と、資晴が子とは、外從兄弟なれば、疏からぬ御中なり、殊に累代の大名の、斯くおちぶれたりし事など、大御所憐み思召ける故、常に御前近く召され、叙爵させ所領をも加へ給ひしにや、
按ずるに、寛永八年の日記にも、又台德院殿御廟前に献りし石燈籠の銘にも、那須美作守資重と云ふあり、然れば此頃は美作守、父が讓を受て、家繼きしにや非ずや、又承應元年の日記に、那須左京大夫が領七千石とあり、台德院殿御廟前の石燈籠、献りし人々は皆万石已上の人なり、那須が領万石以上に非ずば、献る事はあるまじきにや、此二箇條覺束なし、今其家亡ひぬれば、尋ぬべき方なし、能く知れる人を待て、明らむべき者なり、