丹後守藤原長實は、豐臣關白に仕へ參らせ、黃母衣廿四人の中に選み入られ、又七手の侍の番頭と成され、備中の國川邊の地を下し賜ふ、一万石〇此家の系圖いまだ見ざれば、委しき事は知らず、大坂の兵起りし時、一方の大將を承り再ひ兵起りて、元和元年五月七日長實、手の人々を引具し城中より打て出て、將軍家の御陣に向つて戰を決す、諸方の味方散々に打なされて迯け走る、長實も城中に引返し、秀賴の御先途を見屆け參らせんとせし處に、東國の多勢、雲霞の如くみち〱て路既に差塞り、城中又猛火燃え上りしかば、郞等一人召具して森嶋權右衞門高野山に落行き、秀賴御自害ましませしと聞えしかば、今は世に思ひ置く事なし、いでさらば關東の御使乞うて、尋常に腹切て死せんずものをと、兩御所に使まゐらせ御使を待つ、兩御所此由を聞召し、仰せ下さるゝ旨ありて、思の外に一命を助けられ、剩さへ父子同じく御家人に召出され、本領をぞ賜りける、