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가문 목록 › 第十下 › f147

靑木

第十下 · 단락 5 · 780525 38코마 L부터

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이 가문에 자주 나오는 인물·지명

인물 8 5 5 4 3 3 2 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

지명 4 1 1 1 1 1 1 1 1

中頃の先祖故あつて美濃國に流さる、其後子孫相續て當國の住人となりて淨憲に至る、法印初は加賀右衞門尉重直と名乘り、當國の守護土岐に仕へ、土岐亡て齋藤山城入道道三に隨ふ、此人武勇の名譽あるによつて織田殿に召され、又豐臣關白の御家人と成され、入道の後民部卿法印にはなされたり、慶長十八年八十六歲にて、大坂の城に卒せしと云ふ民部少輔一重は、初め今川上總介氏眞に仕ふ、今川亡ひ給ひし時、一重むかし新坂の合戰に、よき敵と組て首取て名を得たりしより、德川殿知し召されし者なれば、御家人に召出さる、元龜元年近江國姉川の合戰に、眞柄十郞左衞門と戰ひ、味方が原の合戰には、高天神の城に向て敵を防く、其後故あつて德川殿を去て、遂に豐臣關白の御家人とはなつてけり、
初め關白御家人の中、廿四人をすぐつて黃母衣を懸させ、軍の使を成さる、一重其選に入れらる、黃母衣の衆と云ひしなり又廿四人が中より勝り出されて、七手の侍の番頭とは成され、一重又其選に入れらる、七組の番頭といふ大坂の兵起りし時、一方の大將を承る、東西御中直りの事整りて後、元和元年三月大坂の御使として、淀殿の御使の女房達、具して駿河の國府に參る、是は大御所路次の程、御恙もわたらせ給はで、歸り入らせ給ひしを、賀し申されんが爲にして、又大御所に望み申させ給ふ事など有りし故とぞ聞えける、此時尾張の宰相中將殿、北方迎へさせ給ふとて、大御所も彼處に渡らせ給ふべきにて有りければ、彼の御使の女房たち、召具せられ其事取計らはせ給ひ、是より都に入らせ給ひ、女房達は御返事給はつて大坂に歸され、一重をば爰に止められて、京職の兵して彼の旅舘を打圍み守らせ、歸ることを許されず、これ政事錄創業記等の說なり一說に一重は將軍家へ御使に參りしを關東に止められしといふ同五月八日大坂の軍敗れぬ、其後一重將軍家に召出され、再び御家人とは成りにけり、年七十八歲にて寛永五年に卒す、其子甲斐守重兼家を繼き、年老て致仕入道し端山とぞ號しける、其子民部重正實は朝倉越後守が男也、重兼が家讓られて其年寛文十二年十二月廿八日叙爵して甲斐守に任す、其子民部重安なり、