備前守平安政が先祖は、三浦介義明が一族たり、鎌倉殿に隨ひ參らせて、安房の國佐久間の庄を賜ひしより、代々佐久間とは名のりてけり、中頃の先祖本國を去て尾張國愛智郡に移り、久右衛門尉盛次に至て織田殿に仕へ參らせ、盛次柴田修理亮勝家が妹に添うて數多の男子を設く、嫡男玄蕃允盛政、二男は備前守安政なり、三男は母の名字になつて柴田三左衞門尉勝政と名のる、四男大膳亮勝之、五男左兵衞尉勝年、六男藏人勝友とぞ申ける、初め柴田羽柴不快になつて近江國志津嶽にして戰ふ、手合の戰に玄蕃允盛政、中川瀨兵衛尉が陣を打破て淸秀を討取る、淸秀は瀨兵衛なり勝家終に秀吉の爲にかけ負けて、盛政幷に舍弟勝政は討死す、盛政三十歲勝政廿七歲備前守安政その時は久六郞と申せしが、初め佐久間右衞門尉信盛が寄騎なりといふ舍弟勝之と共に時に源六郞といふ佐々內藏助成政が養子といふ敵の中をかけ破り、關東に落ち下り北條左京大夫氏政に從ふ、天正十八年の秋北條が家滅びし後、蒲生飛驒守氏鄕が勸め申に依て、安政勝之兄弟共に豐臣關白の御家人になさる、