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瀧川〔本氏木造〕
이 가문에 자주 나오는 인물·지명
인물 滝川雄利 31織田信雄 18豊臣秀吉 15織田信長 10木造具政 6北畠具教 6豊臣秀長 4北畠晴具 3脇坂安治 3徳川家康 3木造顕俊 2木造具之 2柘植三郎左衛門 2滝川一益 2日置大膳亮 2村上天皇 1具平親王 1北畠顕能 1木造俊茂 1源義家 1伴資兼 1福地某(伊賀国人) 1平景清 1織田信孝 1
지명 伊勢国 6伊賀国 5伊勢神戸城 4伊勢松ヶ島城 3尾張国 2摂津国大坂 2伊勢国木造 1近江国甲賀郡大原 1伊賀丸山城 1伊賀音羽城 1尾張熱田神宮 1伊賀上野城 1伊勢峯城 1伊勢沢城 1伊勢国府城 1伊勢浜田城 1四国 1讃岐国 1相模国 1上方 1関東 1常陸国 1
かくて北畠の具敎、終に信長に戰ひ負て中直りし、彼の二男茶筅丸に家讓らんとて子とす、信長かの瀧川兵部少輔柘植三郞左衞門尉二人、同じく御曹司に附けられ、兵部少輔改めて三郞兵衞尉と申す、元龜二年の夏具敎我が娘御曹司にあはせ、明れば三年の春、元服させ三助信雄と名のらす、三郞兵衞尉かの名の字賜つて雄親とぞ名乘りける、其後に雄利と改む四年の冬信長1具敎を討て北畠の一族悉く滅し、伊勢の國を奪ひ取て信雄に附けらる、三郞兵衞尉叙爵して下總守になさる、六年の冬伊賀の國の住人福地何某、織田殿に心を通して當國の案內仕らんと望む、信長まづ彼國を信雄に賜ひ軍勢を差向けらる、瀧川下總守丸山の城を賜て當國を打隨へんとす、同き十年の夏織田殿失せ給ひしかば、伊賀國の侍等信雄に叛く則ち討手を差向けらる、下總守まづ音羽の城を攻めて、南北の地を打隨へ猶國中を平けんとす、信雄その功を賞して此年の冬伊賀の國悉く雄親に賜ふ、幾程なくて國中悉くに平きぬ、筑前守秀吉かくと聞いて、あつぱれ大剛の者なりと感じ給ふこと斜ならず、
- 四年の冬信長 — 지면 그대로. 앞 문맥상 元亀 연차로 읽히나 元亀4年 겨울은 天正 개원 뒤이고, 北畠具教 살해(三瀬の変)는 天正4年 11月이다
明れば十一年の夏、信雄秀吉に心合せて舍弟三七信孝を滅す、秀吉又信雄を失はんと謀て、先づ彼家人等味方させんが爲に、悉く其人質を請ふ、雄親信雄の命に從て、おのが子を參らせたを、秀吉脇坂中務少輔安治して守らせらる、十二年の春信雄始て秀吉の謀を知て軍起さんとする初、雄親脇坂が許に來て妻がいたはり、以の外に侍れば、暫しがほど子息給つて、此世の名殘を惜ませばやと望て、おのが質を取返し伊賀の國に馳せ歸りける、秀吉かくと聞て大に怒り給ひしかば、脇坂手勢廿騎ばかり引具して鞭鐙合せて追ひ懸く、伊賀の國に入て瀧川打參らせたらん者は、勸賞乞ふに依るべしと呼はつて馳せ行く、國人等此處彼處にて馳せ付き〱する程に、其夜上野の城に押寄す、雄親かほどに小勢なるべしとは思ひも寄らず、取者も取あへず、城を落て伊勢の國に趣く、信雄頓て松が島の城を賜はりしかば、同三月雄親軍勢引具し押寄せ、彼城攻め取て日置大膳亮と共に籠る、徳川殿より服部半藏に鐵砲百挺附けて此城に籠められしなり去程に秀吉信雄亡さんと、伊勢尾張の國々に發向し、軍勢を引分け舍弟美濃守秀長を後には大和大納言と申せしなり大將軍として、大名餘多つけて伊勢の國に差向く、秀長まづ松が島の城に押寄す、秀吉自ら尾張の國に向て德川殿と戰ひ、負軍し池田森等を始めとして兵多く討る、味方また嶺澤神戶國府等の城を落さる、瀧川日置防き戰ふこと十四度、寄手の多勢入替〱攻めしほどに、溜りつべしとも見えず、同四月美濃守秀長、謀を運し城中の男女命助けて、城をば寄手にぞ取つたる、伊勢國の侍星合左衞門が娘慶寶といふ比丘尼使して城をさけ渡せしなり雄親松が島を去て又濱田の城に籠る、此時雄親大船を城中に引き入れしを、秀吉聞召し不審し給ひて其後に下總守を御家人になされし時、尋ね給ひしに、君もし我城を水攻にし給はん時の料に候ひきと申せしかば、大に感じ給ひしとなり、秀吉は水攻を好み給ひ、此城又水にて攻めよかんなるが故に、かくは謀りしとなり、
此年十月廿日秀吉信雄中直りし戰を止む、同き十三年の夏關白秀吉四國の地退治あつて後、伊勢の國神戶の城を信雄に附けらる、信雄彼城を下總守雄利にぞ賜びたりける、今迄は神戶の城を生駒雅樂頭領せしを讃伎國賜て移りし故なり又此頃下總守は名を改めしなり同き十八年相摸の北條滅びし時、信雄關白の爲に國奪はれし後、下總守雄利、殿下に召され神戶の城を賜ひ二万石羽柴を名のらせ御相伴衆になされて常に御側に侍らひたり、太閤薨し給ひし後、慶長五年の秋大坂の奉行等、德川殿失ひ參らせんとせし時、雄利上方に與みして所領の地失ふ、其後關東に召されて常に將軍家に伺候す、御咄の衆の中なり同き十五年の秋常陸の國にして所領賜はる、一万石其男勘右衞門尉正利父が跡繼いて大坂前後の戰に從ひ、自らも高名し、手の者共に首切らせて獻る、自ら首三つ手の者二つと云ふ其後改めて瀧川と名のり、叙爵して壹岐守となさる、身の煩ありて常に籠り居ければ、多くの所領賜はらん事、其憚りなきにあらずとて返し獻る、されば今まで領せし五分が一の地賜はりぬ、二千石男子なければ土岐山城守定吉が二男養うて子とす、長門守利貞是れなり、