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○毛利元就嚴島合戰附盲人間者の事

卷之一 第10話 · 段落 1 · NDL 1078984 29コマ L

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陶尾張守晴賢、大內義隆を弑しければ、毛利元就陶を打滅さんと謀られけり。陶盲法師一人を間者として元就の謀を知る。元就始は斯くとも知られざりしが、稍心附きぬ。或時陶が臣永來丹後守我に志を通ず。晴賢を討破らん事近きに有り、と語られけるを、彼法師軈て陶に告げたりけり。元就又書簡を贈らる。永來は周防の岩國の城に在り、彼の書簡を山口にて奪ひ取るべきやうに仕度せられければ、陶大に怒つて永來を殺しぬ。元就彌彼法師を近づけ、平家を語り習ふと稱し側を離されず。陶傳へ聞きて悅ぶ事限なし。元就また或夜軍評定せられけるが、敵大軍にて宮島に押渡らば如何はせん、是ぞ吾亡ぶべき運の極みと覺ゆるなり。又草津廿日市に押寄せなば、岩國の弘中參河守我に心を合すれば、裏切させて陶を討破るべし、とぞ語られける。是れは陶を防がん地に櫻尾の城ならでは然るべき要害なし。宮島に渡らば乘り來る船を燒きたて、歸路を塞ぎて軍すべしと思ひける故なりけり。盲法師斯くと陶に告げければ、然らば宮島を攻なん、といふ。弘中參河守隆包然るべからずと言へ共、陶は弘中が二心を疑ひて聞き入れず。弘治元年十月、四萬餘大船にと乘りて宮島に打渡り、四方を取り圍みたり。元就も今度は十死一生の軍と思ひ定め、吉田の城を出でて僅に四千許の兵にて後卷せられけり。是に地御前の祝日每に蛤船に乘り、宮島に渡りけるを近づけ、心を合せ、士一人祝のまねさせ、宮島に渡らせらる。陶が者共、元就は如何にと問ふ。祝、さん候。元就は草津廿日市へ陶殿押寄せたまはんには勝利なるべきを、宮島を攻めさせ給ふ故手段空しくなりぬとて、火立浦に呆れて御座し候が、引返され候らめ、と語る。是れより陶が者共怠りぬ。元就は窃に軍の仕度をなし、一手は洲屋明神の前より船より上り、天本の御前を多寶如來の側を通り、宮島の町口へ向ふべし。一手は吉田郡山の百姓儕五千餘に嫡子隆元を大將として、彌山島より西の山々の木末に松明を結ひつけ、百姓儕に手々に松明二つ持たせ、夜半の鐘を相圖に同時に火を附けよ。吉川元春は船にとり乘り、浦口にかけ並べたる陶が船共を燒き沈よ、と謀を定めらる。十月晦日今日草津に引退くべし。風雨止まずば元就は今夜火立浦に滯るべし。二日の兵粮を物の具の上に附けよ、とて小荷駄共を先づ返して引退く體にもてなし、日も稍暮れければ俄に唯今宮島へ渡り、思ふ敵を討取るべし。疾く船に乘るべし、と下知し、ひた〱と打乘り篝な點しそ。元就が船の火を標に艫舳の梶を守れ、とて酉の刻許に火立浦を出づる折ふし、北風烈しう吹きたりければ、追手の風ぞと勇み進んで、亥の刻許に宮島の西に著きて陸に上り、船をば一艘も殘らず火立浦に返されけり。元就彼の盲法師を引出し、汝故にこそ今日年頃の志をば遂げつれ、とて海中に沈められけるとかや。隆元は彌山島に打上り、元春は洲屋明神の前より押寄する。小早川隆景は搦手より向ひたるが、一度に閧の聲を擧げ、彌山島の木末に結ひ附けたる松明に火を附けたれば、陶が軍兵驚き騷ぎける處を、元就をめいて先を駈けたれば、陶が者共數百人討死しけり。元春隆景も橫ざまに進みて三浦越中守と隆景鎗を合せ、三浦を突き伏すれば、內藤內藏允落り合て首を取る。引中三河守1も討たれ、陶が軍散々に敗北しけり。陶も旗本を進めて隆景と戰ふ。元就の兵栗屋又四郞眞先駈けて討死す。元就脇より切つて懸り、終に打勝れければ、陶は引退きて道場山にあり。明れば十一月朔日、元就諸軍を集め、卯の刻より午の時まで十二度の戰に、互に討たるゝ者數を知らず。陶終に叶はで自害しけるを、首を取り出して梟せられぬ。討取る所の首四千七百八十餘、生捕八百五十餘人とかや。是より西國元就に靡き從ひけり。
  1. 誤植 — 底本「引中」。「弘中」の誤植か。