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○眞田昌幸智謀北條勢を破ぶる事

卷之一 第23話 · 段落 1 · NDL 1078984 36コマ L · 異本による補遺

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薩埵嶺の役初戰に、武田方の先鋒山縣昌景大に敗れければ、信玄其の先鋒を繰代へ、眞田安房守昌幸をして、次囘の先鋒となしける程に、昌幸は手勢僅に二十八騎を從へ、敵陣を見積りけるに、山縣敗れて後は北條勢大に勇み、薩埵嶺倉澤山に陣を取り、山風に旗指物を飜へし、悠然として扣へたり。昌幸密に敵陣を窺ひ、何やらん打點頭くの體なりしが、軈て馬を返して我が陣にぞ歸られける。斯くて兄信綱を招かんとて使を遣はしけるに、早や信綱は穴山、木辻、淺見、根津、望月、樫山など一騎當千の兵八百餘人を從へて、昌幸の陣所に來りければ、善き所へ來られし、とて豫て設の酒宴の席を開きければ、信綱不審り、汝如何なる謀計を以て、此の大敵を破らんとするや。此の大敵を前に扣て、酒宴とは心得ぬ、と問ひければ、昌幸笑うて、計は密なるを以て良とす。故に今敢て爰に云はず。先づ氣を靜めて酒呑み給へ、と有りければ、信綱心に、此度は如何なる謀計をか用ふるならんか、と想ひつゝ居たりしが、昌幸暫くにして布下彌四郞を呼び近け、其方は是より此の近邊にて、酒を求め來るべし。いで疾々、と命じければ、布下は、畏り候、と急ぎ諸方を駈廻り、數多の酒を求め來るを昌幸大に悅び、悉皆酒樽の鏡を打拔かせ、是れに柄杓を添へ諸卒を呼び出し、如何に汝等今日は別けて餘寒堪へ難くはあらずや。因りて皆々打寄りて、此の酒を飮み寒氣を凌ぐ可し、とて兵粮炊の大釜に味噌汁を沸させ、一人每に柄杓を與へければ、皆々悅ぶこと限り無く、大將よりの御免しにて寒氣を凌ぐ嬉しさよ、と我れも〱と酒を呑み、舞ふも有れば謠ふも有りて、左も勇々しくぞ見えにける。信綱苦々しき體にて昌幸に對ひ、這は何等の擧措なるぞ。陣中に於て諸卒に酒を飮ましめば必定過ち有らん。此儀は無用なるべし、と云へば、昌幸答へて、先々見給ふべし、我胸に一計有り、とて士卒を呼び、何と皆々酒を飮み寒氣をも忘れしか、と問へば、皆一同に、然候ふ。大將の御情にて寒氣を凌ぎ手足暖まり候、と舌鼓を打鳴して笑ひ樂むの體なりしかば、昌幸指さし、那れ見よ方々。薩埵嶺倉澤山の峠等に備へし敵兵、左こそ寒き事ならめ。弓を引くにも鐵炮を發つにも、手屈まり進退自由ならざらん。平地に在る爾等さへも寒氣嚴烈しき故、酒にて暖まりしならずや。此勢にて那の敵を一當あてんは如何にぞや、と申しければ、皆々踊り上りて勇み立ち、是れこそ望む所なれ。酒を給ひし其代に功名して、敵の首を肴に又々祝ひの酒宴を仕らん、と力足を蹈み鳴らしてぞ悅びける程に、昌幸令して、左らば打立つべし、と眞先駈けて馬を出しければ、誰か猶豫ふべき、我劣らじ、と三千餘人酒の勢に川を渡りて薩埵嶺へ押登りけるに、折節雨霰降りて其の寒き事云はん方なし。然れ共眞田勢は更に事ともせず、喚き叫んで押寄せけるに、昌幸が謀りしに違はず、雨霰降りて寒氣殊に嚴敷かりければ、峠に扣へたる北條勢、寒氣を凌がん爲め皆々峠を下りて民家に入り、陣所々々は唯旌旗指物のみ建て置きて一人も居らざりしかば、昌幸令して、早く小屋々々へ火を掛け、鎧武具は望み次第分取りせよ。各々高名は此時なり、と大音に呼はりければ、皆々勇氣日頃に十倍し、陣々に火を掛けしにぞ、北條勢大に肝を消し、殘りし兵士共我先きにと逃走りける。