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○上杉謙信小田原へ攻め入られし事附上京の事

卷之二 第10話 · 段落 2 · NDL 1078984 52コマ R

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永祿三年謙信八千の師を相州小田原に出さる。關東の諸將皆々靡き從ひて十五萬に及べり。旗本は高麗寺山の麓に陣し、先陣太田三樂は小磯に陣す。北條の兵戰はずして城に引き入りければ、蓮池まで攻め入り、夫より鎌倉に赴き、鶴岡の八幡宮に詣でらる。上杉憲政の長臣等も皆群參す。成田長安警固の者と爭論の事あり。誅罰に及ぶ可きと雖も之を宥めらる。成田謙信の怒りを恐れ病して出ず。これを甲陽軍鑑に謙信成田を打つと錄せしは非なり同年六月謙信上京せらる。六月廿八日京都に至り、七月七日光源院殿義輝に謁し、吉光の太刀黃金三十枚を獻じけり。光源院殿より管領の任、又諱の字を賜り、兄弟の義に準ぜらるゝの命を承り、越後に歸られけり。
謙信相州に攻め入る時、京都より近衞關白前久公を進められ、管領の職を承る事此の時より始るとも言へり。又鶴岡に參詣し、管領の職に任ず。近衞關白前久公下向ありて、光源院殿の公方より大和兵部少輔使たりとも言へり。孰か是なるを知らず。又謙信上京の事、三千許の人數にて、越後を出でられしと言へり。光源院殿に謁して後、京、堺、住吉、所所遊覽して國に歸るに及びて、光源院殿に三好松永謀叛の相顯れ見えて候。御書を賜はり候ふならば、馳せ上り誅罰すべき由、密に申されしを、三好松永も察しけるにや、深く恐れけり。程無く永祿七年三好長慶河內の若江にて病死しけるを、松永祕して翌年の春に至りて公方之を聞し召し、越後へ御書を賜はりける。松永之をや泄れ聞きけん、急ぎ光源院殿を殺しけると言へり。