○上杉謙信小田原へ攻め入られし事附上京の事
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謙信相州に攻め入る時、京都より近衞關白前久公を進められ、管領の職を承る事此の時より始るとも言へり。又鶴岡に參詣し、管領の職に任ず。近衞關白前久公下向ありて、光源院殿の公方より大和兵部少輔使たりとも言へり。孰か是なるを知らず。又謙信上京の事、三千許の人數にて、越後を出でられしと言へり。光源院殿に謁して後、京、堺、住吉、所所遊覽して國に歸るに及びて、光源院殿に三好松永謀叛の相顯れ見えて候。御書を賜はり候ふならば、馳せ上り誅罰すべき由、密に申されしを、三好松永も察しけるにや、深く恐れけり。程無く永祿七年三好長慶河內の若江にて病死しけるを、松永祕して翌年の春に至りて公方之を聞し召し、越後へ御書を賜はりける。松永之をや泄れ聞きけん、急ぎ光源院殿を殺しけると言へり。