常山紀談本文データベース

目次 › 卷之二 › e033

○遠藤喜三郞三村家親を打つ事竝備前明禪寺合戰の事

卷之二 第9話 · 段落 5 · NDL 1078984 48コマ R

人物地名家(氏)官職日付索引へ

汝は三村成羽に有りける時、汝も成羽に有りて能く見知りたらん。美作に忍び行き三村が陣に入りて、討たん事を賴む所なり、と言ひければ、遠藤、三村は手易く討たるべき者に非ず。然れ共斯る仰を承る事面目なり。忍び入りてこそ見候はめ、とて作州に赴きけり。弟の修理も、兄は今度萬死に一生も有るべからず。同じ枕に死なん、とて是も打連れけり。永祿六年三村は穗村の興禪寺といふ山寺に陣して有りけるを、遠藤兄弟夜に紛れ、後の竹林の中より忍び入り、椽の下に隱れ、夜更けて窃に障子の外に立寄り、內を指覘くに、家親柱に倚掛り居たり。天の與ふる所よ、と鐵炮を指當て火蓋を切れば、火繩の火消えけり。喜三郞呆れて居りしに、修理つと外に出で、夜廻の人に紛れ、篝の側を通りさまに、羽折の裔に火を附け、高聲に番の者共を戒しめ、元の所に行きて、兄が火繩に火を移せば、軈て三村が胸下を打貫きたり。其の鉛子の跡今に柱にありとかや。此の時三村が側に三村孫兵衞親成といふ老功の兵有りけるが、ちつとも騷がず、人々靜まり候へ、とて屏風を家親が前に立て、外の體を聞くに靜かなり。扨は夜討にては無りきとて物見を出すに、三星より打つて出でたるけしきもなし。親成下知して、今夜備中に引返すべし、とて松山に歸りて後、家親が死したる事を人皆聞きたりけり。親成無かりせば大に騷いで敗北すべきに、と人皆言ひ合へり。遠藤は元の竹林に隱れ居りしが、三村は死したりと覺ゆるに、あまりに靜かなるは心得ぬ事と思ひながら、忍びて出でけるに、鐵炮を忘れたり。後に狼狽へたりと譏られんも口惜くて又立歸り、忍び行き鐵炮を取りて、兄弟共に備前に歸りけり。後に一萬石與へて、宇垣の城に居らしめ、修理も中村正崎の城を預りけり。家親が嫡子は備中猿掛の城に有り、莊野元祐といふ。二男は三村修理亮元親と言ひて備中松山の城に在り。父の弔軍せんとて先謀を廻らし、備前上道郡澤田の西妙禪寺の砦を攻め取るならば、直家沼の城を出て攻むべきなり。其の時後詰して軍すべし、とて撰りたる軍兵四百人、夜に紛れ三棹山より押寄せ、妙禪寺の砦を攻め取り、藥師寺彌五郞、根矢與七郞等を入れ置きたり。果して直家妙禪寺の砦を攻めたりければ、間に入りたる者松山に馳せ歸りて斯くと告げければ、三村、願ふ所の幸なり、とて一族相集り、其の兵二萬餘、備前辛川の驛にて兵を分ち、一手は元祐大將にて七千餘を率ゐて、萬成山の麓を繞り、春日明神の祠の前より旭川を渡り、旭山の下より艮に向ひて、三棹山へかゝり妙禪寺の後卷とす。一手は石川左衞門尉五千許にて、首村ひやけばなにかゝり、岡山の北を過ぎ、原尾島村に出て直家が旗本へ押寄せ、一時に勝負せんとなり。三村元親は一萬人を率ゐて、津島村より國府市場を過ぎて、釣の渡を越し四御神村の山を越え、沼の城を攻め取るべし、と謀を定めて押入りけり。直家は斯とも知らず、沼の城を出で古津の西宍井に陣して居ける處に、萬成山の砦より敵三方に分れて押寄すると告げ來る。前には敵死地を守りて城に籠りたり。又大軍攻め來ると聞えければ、色めき騷ぎけるに、直家少しも萎縮まず嘲笑ひ、此の城だに攻破らば、敵は幾萬もあれ蹴散して捨つべき物を、と言ひも敢ず、冑を取つて着結びたる緒の端を、刀を抽いて切りて棄て、馬に打乘り二十餘町の田の中を眞一文字に妙禪寺の砦に駈向ふ。先陣の者共後れて砦を攻め取り得ず。今旗本にて、無二無三に乘れや者共、と下知するに力を得て、先陣の軍兵喚き叫んで攻めければ、思切りたる三村が士共引組引組討死しければ、直家城に火を懸けさせ、三棹山に打上り、山上より遙に敵を見下して扣へたり。元祐は春日の宮の前を渡り、玉井宮の前を過ぎ、國富村近く進みける處に、妙禪寺にて討漏されたる者共落來りて、敵はや三棹山に取り上りぬ、と言へば、騷ぎ立ちたる所に、戶川肥後守花房助兵衞、岡越前守長船紀伊守等、鐵炮を打掛け進み來る。備中の兵亂れ立ちて、國富より德與寺の間にて討たるゝ者數を知らず。元祐五十騎許左右にたて勝誇りたる敵に向ひ、延原土佐守が兵を追立て、浮田左京が朱の四半に兒の字の馬標を目がけ、直家の旗本なりとや思ひけん、馳せ入りて討死しける。首をば能勢修理取りたりけり。元親は四御神村矢津の砦近く進む處に、妙禪寺の煙天をこがして燃え上るを見て、すはや城は落けるよ、と犇めき合へり。石川も合圖の皆違ひぬる上は、元親と一つになりて軍せん、と言ふ所に、浮田元家丸に兒の字附けたる旗山風に吹き靡けさせ、一足も引くな、と呼はりて押來り、原尾島を北南へ數度追つつ返しつ相戰ふ。備中の兵うら崩して、石川も竹田村に引き入らんと川上へ人數を纏む。直家兵を押下し高屋村まで進まれければ、石川は八幡村にて取つて返し、元家を目がけ二三度火を散して相戰ふ。浮田の兵數多討たれ、雄町村を東へ指して敗北す。元親は思ふ仇を討ち得ざるのみならず、言ひ甲斐無く兩陣の軍敗れ、兄も討死しける事口惜く、馬の頭を南に引き向け、血眼になりて眞先駈け、只死ねや、と罵りて面も振らず戰ひければ、明石飛驒守、岡信濃守此の鋒に破られてければ、元親、軍は勝たるぞ、とて鎗を提げ、逃ぐる敵を追つ立つる處に、國富村にて軍せし長船等、橫間に駈け來り中に取圍めければ、元親敵の中に駈け入らんとせしを、士共轡に取附き、今日存命へ再び兵を起し、仇を報ゆる時有るべし、と强ひて諫めて引返す。猶追ひ掛くれば取つて返し、相支へて釣の渡を越え引取りけり。斯くて彌直家を討つて仇を報ゆべし、と志深くせし處に、光源院殿義輝を三好弑して靈陽院殿義照沒落し給ひ、織田信長を賴み給へども、京には信長村井長門を守護とし、靈陽院殿志伸べきに非ず、備後の鞆に落ち行き、毛利家を賴られしかば、信長元親の許へ使を以て、此の度將軍に黨せず、西國の通路を塞ぎ織田家に忠を致さば、軈て信長師を出し中國を討平げ、備中備後を元親に與ふべし、と誓紙を添へて言ひ送られしかば、元親一族を集め、將軍家に從ひたりとも、然許の大功も有る可からず。殊に浮田家將軍に隨ふならば、兼て思ひ設けたる仇を報ゆる事も叶ひ難かるべし。信長の望む所に隨ひ、將軍を討參らせ、織田家の力を賴み、浮田を討滅すべし、と謀りければ、皆尤と一同す。三村孫兵衞親成同孫太郞義兼父子は、父の仇を報ゆるに、他人の力を借る事や候べき。弓箭取る躬は忠と孝との二つより外なし。君君たらずと雖も、臣は臣たらずば有るべからず、とこそ承り候へ。信長謀りて語らひて候ふを眞實なりと欺かれ、虎狼の如く世に稱する信長に從ひて將軍を討參らせ、毛利家を敵になさん事、惡逆不義の名遁るべからず。信長將軍の威を借りて五畿內を討ち從へ、後には將軍を侮り、都を追ひ出すに及ぶは惡逆に候はずや。斯る人を賴み給はん事有るべくも無し、と諫めけれ共、元親を始め皆、當家武運を開くべき時なるに、衆議に背く事よ、と人々怒りければ、三村父子は詮方無く成羽に歸りぬ。常山備前兒島郡の城主三村上野介高德元親の從弟にて高德が妻は元親の妹なり親成を捨て置きたらんには、必ず將軍へ告げ知らせ、逆寄すべし、とて信長の援兵を乞ひて、手始に成羽を攻め陷すべし、と言ひければ、此義に同じて信長の許に使を遣し、成羽に働く可き設をなせり。親成は如何すべきと案じ煩ひたる所に、靈陽院殿より偏に賴み思召す由聞えしかば、然らば兵を賜り候ひなば、松山を攻め申すべし、と申しけり。斯くて安藝備後の兵七千三百餘差向けられしかば、天正三年五月廿四日松山へ攻寄する。松山には思ひも寄らず城遂に陷り、元親も城を落ち去りて阿部山に在りけるを、同廿九日討取りて靈陽院殿へ注進す。
一說、元親城を攻落されし時、升彌助といふ士、元親の後を慕ひて安部山にて追著き、元親と名乘り城に歸りて討死せん。其間に爰を落延びて運を開き給へ、と言へども元親聞かず。兎ても遁れぬ所なり。使者を乞ひて來れ自害すべし、と言はれしに、再三諫め爭ひしか共、是非共にと言ひしかば、泣々今生の暇乞し、形見を取りて玉村に有りし元親の母に送り屆け、偖て夫より城に至れば、元親が匿れたる所を知りて告げ來るにや、と門を開きければ內に入り、此の城を枕にせん爲に來れる由名乘りて散々に戰ひ、數多切り伏せて討死しけり。元親は使者を待たれしに音づれも無ければ、松運寺の道に出で、鄕民を賴み城中に云ひ送り、使者を待ちかけて自殺せられしといへり。
夫より兒島の常山を攻めんとて、毛利家の大將小早川伊豆守光重に三村父子相加り、成羽にて勢揃して、六月四日山村兒島郡に陣し、二手に分れて先陣浦兵部宗勝用吉より宇藤木にかゝりて押寄せ、六日の朝大手の木戶口へ攻め寄せたり。高德は後卷と賴む可き味方なく、殊に累年毛利家に弓矢を執りし三村家の謀主なれば、遁れんと思はばこそとて、嫡子源五郞高秀と共に鐵炮を打ち出す。高德の弟小七郞高重は、箭繼ぎ早に弓を射出す。寄手此の三人に防がれて手負ふ者數多あり。七日の曉に及びて、城中最後の酒宴の聲城外に聞えければ、我劣らじと攻め寄せたり。高德の母、我先づ先立たん、とて柱に刀の柄を結び附け、走り掛り貫かれて死しぬ。高秀十五歲、御後に殘らんは心掛りならん、と言ひて腹を切りぬ。二男八つに成りしを引寄せて刺殺しぬ。高德の妹有りしが、藝州鼻高山の城主は高德の弟なれば、其處に落行かれよと言へども、思ひも寄らぬ事よ、と言ひ捨てて、母の貫かれたる刀にて、乳の邊を刺通し、同じ枕に伏したりけり。高德の妻は三十三歲なるが、弓箭取の女房と成りて、最期に空しく死する事や有る。三村が一族と今を限に一軍をせん、とて紅の羅衣を甲の上に着て、薙刀押つ取りて出でけるを、局の女共押止むれば、早疾く立忍びて命を全うせよ。敵一人をも討取らずして空しく死する樣や有る、とて振り切つて走り出づれば、此の上は誰か殘らん、とて立てたる長柄の鎗を取り突いて出る。高德の恩顧の士八十三人、今日を限りに切つて出で、浦が七百許控へたる眞中に、死狂ひに戰ひければ、討たるゝ者多し。されども小勢にて戰ひ疲れければ、高德の妻兵部を呼びかけ、腰なる刀を拔き出し、是れは國平が造れるにて候ふ、我家重代の物なり。父に添ひ申す心にて身を離さず候ふが、武名聞えある兵部殿に進らするなり、と言ひて城に歸り自害す。高德も腹を切れば、弟の高重介錯して其の身も腹切りぬ。寄手亂れて首共を取り、鞆の津に送りけり。常山の山上今に其の城跡あり。