永祿四年七月、甲州に謙信より入れ置かれし間者共越後に歸りて、信州の士二心有る者數多有りしを、五月上旬信玄川中島に赴きて死罪に行はれ、是れによりて疑を生ずる者多し。又和利が嶽の軍に士卒多く手負ひ討死しける由を告げけるを、謙信聞きて、三軍の禍は狐疑より生ずるといへり、是一つ。勞れたるに乘ずべき是二つ。八月に至りて師を川中島に出すべき、とて士大將を盡く呼び集め、各謀を問はるゝに、存ずる旨を書き記して出しけるを、擇び別ちて上中下の三等とし、其下策を用ゆ可し、と言はれしかば、此は如何候ふべき、と怪しみければ、謙信の曰く、上策は旣に敵の察する處にて、我を待つべき謀怠らざる由を聞き、待ち設けたる所へ攻入らんに如何でか勝つべき。中策は數年評議せし所なり。下策を用ひて貝津の城を蹈み越え、西條山に陣し、姑く敵の後卷を待たん。是兵を死地に陷るゝに非ずや。信玄押寄せなば、其の時勝負を一時に決すべし。もし信玄貝津の城に入らば圍み攻めん。又信玄川中島に陣取りて吾が歸路を塞ぐならば、吾軍雨の宮の渡りを涉らず、直に貝津の城に向つて攻め破らんに、信玄必ず救來るべし。其時又一戰して叶はずば討死すべし。是下策を用ふる謂なり、とて八月廿四日西條山に押入り陣したりければ、信玄後卷して暫對陣せられしが、廣瀨の渡を越えて、貝津の城に入りたりけり。斯くて九月九日の晚、謙信士大將を集めて、明日信玄必ず打出て戰ふ可きよ。今夜雨の宮の渡を逆寄して其の不意を擊つべし。用意せよ、とて寅の刻に至りて川中島に兵を押出す。先陣は柿崎和泉、後陣は甘粕備後なり。果して十日の卯の刻許に、信玄一萬餘の兵を率ゐ千曲川に打て出で、善光寺の要路に待たれし處に、謙信軍を進めて一手切の合戰を始む、謙信旗本眞黑になりて切懸り、信玄の旗本を押崩す。甲斐の兵討たるゝ者數を知ず。斯る所に西條山の甲州の軍兵一騎駈に馳せ來るを見て、謙信兵を纏め勝を全くせられたり。甘粕備後後陣の兵を進むるを見て、信玄の旗本蹈み止まりたるが又亂れ立ちて廣瀨の渡に引き退く。甘粕是に因りて西川邊に陣する事三日にして引き取れり。
○信濃國川中島合戰の事
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是謙信實記に據りて錄す所なり。川中島の戰異說多く、分明ならず。一說に、天文廿三年八月十八日、川中島にて戰あり。謙信旗本半町許敗北する處に、宇佐美駿河守定行橫間に懸り、信玄の兵大に亂れ、御幣川へ追ひ入れられ討たるゝ者多し。信玄は川の中に馬を立たる處に、謙信綠の曇子にて包みたる肩衣に臂鎧を差し、白き手拭をもて頭を包み、三尺許の刀を抽持ち、虎の暴れたる如くなる鹿毛の馬に打乘り、信玄は何處に在りや、と呼る。原大隅、信玄何事に爰に在る可きや。狼狽者よ、と罵り、鎗にて突きけれ共突外す。謙信川へ馬を乘込み信玄に駈け寄せ、三刀まで斬られしに、信玄持ちたる軍配團扇も切り折られ、手負ひて旣に危かりしに、原大隅萩原彌右衞門鎗を取り伸べ、疊みかけて謙信を敲きけるに、馬のさんづに當り、馬川の深みに飛入りける。其の間に信玄の馬副の者共、信玄の馬を川岸に引揚げて物分したりとなり。宇佐美駿河守謙信より賜はりたる感狀にも、天文二十三年八月十八日川中島に於て、橫鎗をもて信玄の旗本を突き崩したる由載せられたり。弘治二年三月廿五日にも川中島にて軍あり。謙信千曲川を涉りて夜軍に懸られしかば、板垣駿河、一條六郞、諸角豐後、初鹿源五郞、輪形月織部、山本勘介を始めとして、討死する者多し。甲斐の先陣上山より懸り來り前後に迫りける故、謙信川を涉りて引き取られけり。此の時に宇佐美駿河守先陣して功あり。又永祿四年九月十日川中島の戰に、武田の先陣敗北す。信玄の旗本を以て盛り返し、長尾政景等陣を亂して懸りける所に、渡邊越中一陣衆を越えて鎗を入れ、遂に甲斐の軍敗北せし事、皆謙信家臣に賜ひし感狀傳れり。甲陽軍鑑川中島數度の軍を附會して一度と爲すなるべし。又一說に、永祿四年九月十日の戰の事は、謙信の家に言傳へたる事無しと言へり。然れども謙信の感狀を傳へて、謙信實記と符合するに似たれば、九月十日戰有りし事疑ふべからず。上杉義春入道入菴京都に閑居して有りしが、徒然の餘り甲陽軍鑑を讀せて聞かれしに、事實謬れる事のみなり。高坂が死後の事を多く書載せ、川越の軍も年月大に違ひ、人の姓名も以ての外謬れる事多く、又無き人の名を造り拵へたるも有り。謙信の世の事は予よく知りたるに、如此謬れるなれば、此の書更に信ずるに足らず、とて復讀まする事無かりしと言へり。今を以て是を視るに、甲陽軍鑑過半は贋物なり。又按ずるに、今世に專行るゝ書に、川中島五戰記といへるあり。此書は川中島の戰五度なりと錄せり、然れども其中に疑ふべき事無きに非ず。之も又正しき書とも信ぜられず。謙信鶴岡に詣でて忍の成田を打ちたりしかば、關東の諸將心々に離散し、小荷駄を敵に奪はれ、僅に謙信遁れ得て越後に歸りし、と甲陽軍鑑に記したるも心得られず。關東の諸將靡き從はずば、如何で其年京に上る事の有るべき。是事情時勢の顯然たる事にして、甲陽軍鑑の虛妄論をまたず。