永祿五年三月、北條氏康父子、武田信玄父子、數萬の兵を以て、武州松山の城を圍まるゝと聞き、謙信八千の兵をもて後卷せられしが、十五日厩橋に着陣あれば、城落ちけると聞えければ、然れば之より山の根の城へ押寄せ打破るべし。敵後詰するならば、北條武田父子四將の大軍に打合せて軍せん事尤望む所なれ、と言ふより早く刀根川を打渡り、架けたる船橋を切流させ、山の根の城に押寄せ、忽ち攻め落し、小田助三郞を始めとして皆撫切にしてけり。斯くて使を四將の陣に遣りて、松山の城に向はれ候由を承り、出向ひ候に城早く攻め取られ、軍仕る事無くて、弓箭の禮義に背きて候。唯今山の根の城を攻め候程に、後卷や仕り候へと言ひ送られしかば、氏康懸りて軍せんとす。信玄の曰く、今勝ちたり共、謙信には四人して勝ちたり、と人に誹れん事口惜き、とて强ひて止めてさて止みけり。信玄、實は然らず、日比謙信の勇氣倍々にても戰ひ難きに、松山城落ちて怒を含みたれば、其の鋒に向ひ難く、虎を恐るゝが如くなりし故とぞ。