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北条氏康
本文表記 氏康・北條氏康・北條公・氏康公
北條氏康示弱乘强の事 卷之一 · 8
- p01…上杉憲政關東八州の豪傑八萬騎を率ゐて、北條氏康を擊たんとて南下しけるに、氏康も亦出でて入間河の南に陣しける…
- p01…八州の豪傑八萬騎を率ゐて、北條氏康を擊たんとて南下しけるに、氏康も亦出でて入間河の南に陣しけるが、上杉氏の兵來り迎ふと聞き、…
- p01…も亦出でて入間河の南に陣しけるが、上杉氏の兵來り迎ふと聞き、氏康戰はずして走りて小田原に入り、間者の歸り來る者に向ひて、敵中…
- p01…う、敵皆笑うて云へるには、豎子走ると箇樣に申居り候と。斯くて氏康小田原に居ること五六日、又出でて河南に至りけるに、敵來りけれ…
- p01…ず。若し出づれば走るのみと。復顧みる者之れ無く候、と聞きて、氏康の云ふやう、敵旣に驕る。時こそ良しと。其の夜將士を集へ、親ら…
- p01…に兩三人手を掛けて、相爭うて捫擇す。其擾亂云はん方なき所を、氏康の兵縱橫に奪擊したれば、一人百敵に當らざるは無し。遂に二萬餘…
- p01…傷し、朝定を虜にし、晴氏憲政を走らせけるにぞ、八州の豪傑即夜氏康に降る者九十餘姓に及びける。是夜難波小野など云へる將帥皆死し…
- p01…授けて曰く、吾れ復此を用ふる事無し。之を用ゐて標と爲し、好く北條公に仕へよ、と乃ち死しける。大導寺是れより九燈を以て記幟になす…
上杉謙信鹽を甲斐に送る事 卷之一 · 2
謙信松山城後卷の事 卷之二 · 2
眞田昌幸奇計の事 卷之二 · 1
- p01…く一萬五千餘騎にて、曾我山を廻りて德間井より進みければ、大將氏康父子大に悅び、今や信玄の首擊ちて來るならん、と舌打鳴して待ち…
眞田昌幸北條勢を欺く事 卷之二 · 1
- p01…つれば、北條勢一支へもあらず、我れ先きにと迯げ出したり。大將北條氏康、同氏忠大に駭き、今は戰ふも益なし。引けや者共、と云ふ程こそ…
長坂釣閑跡部大炊邪佞の事 卷之四 · 1
- p01…謙信卒して天正六年三月九日養子上杉三郞景虎改政虎實は北條氏康の子也猶子喜平治景勝遺跡を爭ふ。景虎緣ある故武田勝賴に援兵…
謙信信玄二將の批評 卷之七 · 1
- p02…と見えたれども、北條五代記に記せるは、信玄川中島に陣せしに、氏康夜討して甲州の兵敗北し、八幡と書きたる旗を捨てて甲州へ逃入り…
甲陽軍鑑虛妄多き事 卷之七 · 6
- p01…用ゆる、信玄の可及にあらず。山の根の城を攻め落せしに、信玄氏康兩旗にて後援する事能はず。遙々と敵の中を旅行して京都に赴きた…
- p01…いへり。持氏と兩上杉と時變れり。持氏の滅亡は永享十一年にて、氏康とは遙に百八年を隔てたるを、同時に記せり。北條早雲は延德二年…
- p01…森原にて高梨に討れぬ。早雲さへ兩上杉と如斯を、氏康未生れざる已前の事どもを、甲陽軍鑑に記せしこと誤なり。天文六…
- p01…と、武州河越にて夜軍あり。朝定討死なり。此の合戰を、兩上杉と氏康夜軍となして記せるにや。同十五年丙午四月二十日、持氏五代の後…
- p01…二十日、持氏五代の後、古河の晴氏と管領上杉憲政と共に河越にて氏康と合戰有りて、晴氏憲政敗北なり。是を甲陽軍鑑に兩上杉と氏康軍…
- p01…て氏康と合戰有りて、晴氏憲政敗北なり。是を甲陽軍鑑に兩上杉と氏康軍とせり。されば五代已前の持氏をば公方と記し、五代已後の管領…
米倉丹後が子彥十郞鐵炮疵妙藥の事 拾遺 卷之三 · 1
- p01…氏康公松山を攻むる時、信玄に救を乞ふ。此時甲州の士米倉丹後が子彥十…
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