常山紀談本文データベース

目次 › 卷之二 › e045

○眞田昌幸北條勢を欺く事

卷之二 第21話 · 段落 1 · NDL 1078984 60コマ L · 異本による補遺

人物地名家(氏)官職日付索引へ

眞田安房守昌幸僅に二千餘騎を以て、北條の大軍と屋布に對陣なしけるにぞ、北條右衞門之を見て大に笑ひ、甲府勢大軍にて向ふべきに、僅の小勢にて向ひけるこそ淺はかなり。一蒐に攻め破れ、と早々に用意なしければ、松田尾張守大に制し、小敵なりとて侮るは、兵道の誡むる所なり。敵の擧動を窺ひ機に乘りて攻掛るべし、と扣へたりしに、眞田安房守は別府若狹伊勢崎十郞石田郡次などに命じて、其夜陣中に松明三百許を燈し、那首這首徘徊致させければ、北條勢之を見て、驚破夜擊を掛くると覺ゆるぞ。油斷すな、と用心してある所に、陣中に近づく事二町許にして、松明一時に打消ければ、四邊は忽ち闇夜となり、黑白も分たざるに、北條勢今や寄來るらん、と待て共〱何の沙汰もなく、其儘夜は明けたりければ、餘に訝しく思ひ、夜前松明の消えし邊へ人を出し見するに跡形もなく、不審乍らに偖て止みぬ。然るに其翌夜又々松明五百許燈しつゝ押寄せ來るの勢ひに、北條勢、今宵こそ攻來るぞ、と急ぎ用意をなす所に、犇犇と間近く攻め來るかと見れば、又も一度に消え失せたり。斯くする事五六日に及びければ、北條勢は大に心氣疲勞れ、晝夜寢る事能はず、心身茫然として居たりし。第八日目の夜は、松明も見えざれば、偖ては今宵は來らぬぞ。帶紐解きて眠れや、と前後も知らず臥したりけるに、眞田の斥候此體を窺ひ濟し、斯くと告げ來りしかば、昌幸大に悅び、敵我が籌策に乘りたるぞ。今宵こそ北條勢を破るべし、と先づ一方へは長根肥後守千餘騎、一方へは眞田安房守昌幸千餘騎にて山手を廻り、左右二手に分れて押寄せたり。北條勢は思ひも寄らぬ不意を襲はれ、鯨波の聲を聞くよりも慌忙狼狽て、太刀よ物具よ、と云ふまゝに、鎧を着けても冑なく、繋ぎし馬に打乘りて鞭打つも有りて、上を下へと騷ぐ處へ、鐵炮を打掛け〱無二無三に攻め立つれば、北條勢一支へもあらず、我れ先きにと迯げ出したり。大將北條氏康、同氏忠大に駭き、今は戰ふも益なし。引けや者共、と云ふ程こそあれ、主討たるれ共郞等之を顧みず。親擒にせらるれ共子之を救はず、我れ先きにと敗走しければ、馬に蹈れ人に押れて死する者山際に押詰められ、人手に掛らんよりは自害するも有りて、手負討死數知れず、散々になりて小田原までぞ引き退きける。然るに眞田方は一人も損せず、敵の捨てたる武具、馬具、旗幕、指物に至るまで悉皆取納め、甲府を指して悠々と凱旋なしにける。