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○甲陽軍鑑虛妄多き事

卷之七 第10話 · 段落 2 · NDL 1078984 142コマ R

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甲陽軍鑑を、高坂彈正書きたりと世に傳ふる事久し。勝賴に仕へし友野大膳武功の人にて、甲州の滅びて後、引籠り隱れ居しが、書きたる物には香坂と記せり。姓も違へり。僞妄多き書なりと雖も、軍國の事情をよく書き取りたる故に、其虛妄を人疑はず。控弦の家專ら讀む可きものと古人も言ひしなり。然れども其の事實を案じ、其の眞僞を考へずば、大に惑はされん事必然なり。川中島九月十日の合戰の事、其の記せしによりて是を論ずるに、信玄の敗北たる事疑ふ可からず。卯の刻に始りたるは越後方の勝、巳の刻に始りたるは甲州の勝なりと記せり。軍は芝居を蹈へたる方を以て勝とする事、甲陽軍鑑に論明白なり。然れども其日の戰信玄芝居を蹈へられしとは言ふ可からず。旣に山本勘介が其の軍を豫め言ひたりしにも、二萬の兵を一萬二千、謙信の陣西條山へ指向け、合戰を始めなば越後の軍勝つとも負くるとも、川を越え退かん處を、旗本組二陣を以て首尾を打たんと謀りしなり。然れば謙信客戰なるが故に、思ふ程利を得たりとも、越後に引返すは極りたる事なり。是主戰の敵に勝ちたればとて、空しく其地に有る可きに非ざるを以てなり。是を以て言へば、信玄芝居を蹈みたればとて勝と言ふ可からず、是一つ。又信玄芝居を蹈へたりとも言ひ難きにや。甘糟近江守、犀川を渡りて三日留りたるを、甲州より押寄せて軍する事能はざりき。是越後の軍芝居を蹈へたるに非ずや、是二つ。昔老人の物語に言ひ傳へし事有り。信玄嫡子義信を殺されしは繼母の讒言有りしと雖も、其實は川中島にて信玄、義信將机換をして、信玄は廣瀨の方へ引き退く。敗軍と言ひ乍ら義信を捨殺すべき勢なりし故、義信深く恨を含むを以て、遂に不和に及んで殺されしに至れりとなり。信玄其場を蹈む事能はずして逃げたるを以て、芝居を蹈みたりと言ふ可きや、是三つ。謙信素より甘糟を以て、川を渡るの後殿と定められしが、三日留りたるを以て見れば、甲陽軍鑑に、甘糟が兵散亂せりと記せるも、虛妄なる事論を待たず。甘糟三日芝居を蹈みたるに、謙信何事に狼狽して、主從二人高梨山に懸りて走る可きや。謙信旣に其前夜軍評定ありしに、計りし如くなる旨、甲陽軍鑑に記せし處明かなり。初の合戰に打勝つて、巳の刻まで徒に敵の歸り來るを待ちて敗走す可きや。謙信の弓箭を取れる越中の戰は、父の弔合戰なり。信濃に師を出すは、村上義淸に賴まれて其の求めに應じて是を救ふなり。相摸の軍は上杉憲政の來るを容れて、已む事を得ざるなり。故に其詞にも強て勝敗を見るに非ず、當る處の爲さで叶はざるの戰を爲すと言へり。信義を守るを、大將の可㆑愼事にせり。爰を以て深く賴みたるは始終約を變へず、又其兵を用ゆる、信玄の可㆑及にあらず。山の根の城を攻め落せしに、信玄氏康兩旗にて後援する事能はず。遙々と敵の中を旅行して京都に赴きたるも、勝れたる事ならずや。信玄は、謙信小田原へ攻め入る跡に附きて爲したるは、爲し易きにあらずや。甲陽軍鑑に、長沼に城を築かれし時、判兵庫に信州水內郡にて百貫の地を與へ、信州戶隱にて密供を修す。爰に北越の輝虎讒臣を企て、此次切れて見えずと記せり。永祿十一年謙信戶隱山にて、謙信を信玄咒詛直筆の書を見て打笑ひ、弓箭取る身の恥なり。末代の寶物にせよ、と神職に言はれし由語り傳ふ。今其の書紀州高野山に有りといふ事、詳に書き記せる物あり。實に謙信を恐るゝ事虎の如しとも言ふ可きにや。村上義淸再び信州に歸り入りし事、甲陽軍鑑に載せずと雖も、永祿年中、信州の中四郡謙信に屬し、義淸を信州へ入れられし事、記せるもの有り。甲陽軍鑑に、長坂長閑、跡部大炊助二人を奸曲の臣として、勝賴寵せられし事を深く憤れるは然る事なれども、二人權を執るは、勝賴に始まれるに非ず。信玄の時より寵せられし故、勝賴に至りて愈權威有りき。信玄の時、北條の兵に跡部敗れ走りしを、皆寵愛を憎みし由を、甲陽軍鑑に載せたるを以て知る可きなり。又言ひ傳へし說に、甲陽軍鑑を著せし本意は彈正にて、筆取は猿樂彥十郞といふ者なり。彥十郞は甲州滅びて後、大久保忠隣の所にて、東照宮の御事を書き加へて一書となしたるなり。又或人の云ひしは、川中島合戰の事を前夜に論じて、謙信强敵たるの故、對々の人數にてさへ危きに、まして信玄八千謙信一萬三千なり。勝つといふとも、討死數多有るべしと武田の各存ずるは理なり、と言ひし事を甲陽軍鑑に載せたれば、勝は謙信に有る事分明なり、と論ぜし人もありき。又同書に載せたる、持氏生害、兩上杉おごり恣にて、武州河越にて北條に負けたるは天の罰なり、といへり。持氏と兩上杉と時變れり。持氏の滅亡は永享十一年にて、氏康とは遙に百八年を隔てたるを、同時に記せり。北條早雲は延德二年に相摸に打入りたり。其頃上杉顯定は越後に在り。顯定は越後信濃の境、長森原にて高梨に討れぬ。早雲さへ兩上杉と如き㆑斯のを、氏康未生れざる已前の事どもを、甲陽軍鑑に記せしこと誤なり。天文六年丁酉七月十五日、管領朝定と北條氏綱と、武州河越にて夜軍あり。朝定討死なり。此の合戰を、兩上杉と氏康夜軍となして記せるにや。同十五年丙午四月二十日、持氏五代の後、古河の晴氏と管領上杉憲政と共に河越にて氏康と合戰有りて、晴氏憲政敗北なり。是を甲陽軍鑑に兩上杉と氏康軍とせり。されば五代已前の持氏をば公方と記し、五代已後の管領を兩上杉となせるなり。持氏の四男成氏、成氏の長兄公方政氏なり。同人の長子高基、高基の長男晴氏なり、と言へり。又甲陽軍鑑に載する高名の事ども虛妄多し。中に就きて采配を手に懸けて在りし敵を討取りて、首を得し事を記せし事、幾ばくといふ事を知らず。總じて甲州に敵せし士は、采配を手に懸けしと見ゆ。誠に笑ふ可き書の記し樣なり。其餘虛妄勝て計ふ可からず。然れども其時に居て、戰國の勢を能く知り、且士の情に達せし者の書きたる書なる故、弓箭取る者の翫ぶ可き書にて、虛妄を以て棄つ可きには非ず。
吾友の松崎惟時が語りけるは、其の師なりし寶山流の劒術の達人武藤十右衞門の論ぜしに、戰には巧拙有りと覺ゆ。太閤秀吉は戰に拙きなり。小牧にて十萬に及ぶ兵を帥ゐて東照宮に對陣し、誠に一刄も合はする事能はず。東照宮の御弓箭世に勝れさせ給へるは論にや及ぶ。然れども三方ヶ原にて甲州の兵と御一戰有りしに、衆寡敵し難き故にや、利を失はせ給ひぬ。さらば信玄は、海內無雙とも云ふ可きに、謙信と軍する度每に打負けられたり。是を以て思ふに、戰の巧拙は遙に其科有るにや。然れども天下に旗を揚げ、世を治め、國を平にするの道は別に有りて、戰の巧拙にはよる可からず、と語りしとぞ。是又奇論とすべし。