天正十三年三月、東照宮濱松の城にて疔を病せ給ひ、近習の若き人に膿を强く押させ給ひしにより痛み甚しく、已に事切れさせ給ふ、と城下には申しける程の事なりけり。今はかうとや思召けん、御遺言を仰せ出されしに、本多作左衞門重次參りて、先年臣を療養せし糟谷政利入道長閑が藥を附させられよ、と申しけれ共、聞し召し入れさせ給はざりしかば、作左衞門大に怒り、殿は徒に死し給はんよ。此作左衞門は年老いぬれば、只今自害して待ち奉る可し、とて座を立ちけるを御覽じて、如何に作左衞門氣狂ひたるか、未だ存命へたるに自害とは何事ぞ。吾亡からん後こそ大事なれ、と申されし時、作左衞門、夫は人に依りての事に候。若き時より幾度と無き軍場に數ヶ所の手を負ひ、世の中の畸といふ畸は身一人に揭げ候ひぬ。今日まで殿の御情にて人がましくも候なり。只今殿過ぎさせ候ひなば、北條を始として敵國攻め來らんに、殿に後れ奉り、はか〲しく軍する者や候べき。國は忽ち滅亡すべし。其時作左衞門は路の邊に餓死せん。彼れこそ德川家に奉公せし本多作左衞門よ。何を賴みに存命へたるなど、人に嘲り笑はるべし。近きは武田の內にて甘利殿とて人の敬ひたる人も、武田の運盡きぬれば、今は本多平八郞が組となり、屈まり居るを見るも哀なり。是は人の上ならず、勝賴の不道にて滅亡したるも、殿の藥を嫌ひ給ふも同じ理に候、と申せば、東照宮尤なりとて長閑を召し頓て藥を奉り、灸を大にして作左衞門据ゑ奉りければ、夫より痛み稍輕くならせ給ひければ、作左衞門聲を上げ泣いて悅びしとぞ。