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○秀吉東照宮に和を乞はれし事

卷之七 第4話 · 段落 1 · NDL 1078984 137コマ L

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天正十四年正月、秀吉織田源五郞長益、羽柴下總守勝雅、天野作左衞門三人を使として、東照宮に和平を乞はれけり。三人歸りて、和平思も寄らず。重て來らば首を切らん、と德川殿申されし由申し入る。又重ねて三人を三河へ遣し、强ひて和平を請はせらる。東照宮三河の吉良にて、左の手に鷹を据ゑさせ給ひて三人に御對面あり。三人申しけるは、信雄卿の厚恩を忘れての事には候はねども、秀吉計略し、瀧川三郞兵衞に羽柴の姓を與へ下總守になし、神戶の城主として三萬石の加祿し、其外數多都に妻子を置き、自ら人質と成り候ひぬ。種々の謀候へば、此度和睦候はずば秀吉軍を出し、淸洲にて勢揃へして打向ふべきことなり。四國中國の兵も相加はり、去々年小牧の時より兵十萬も多かるべし。由々しき事に候、と申しければ、東照宮聞し召し、去年十一月伊勢の奈合にて信雄卿と和平の時、我方にも已來別の事あらじ、など云ひたるも、我を謀るの謀にて、吾家の石川伯耆守に十萬石與へて我に背かせたり。吾弓箭を取つて發向せんと思ひしかども、織田殿の國を打過ぎて軍せん事如何にと怒を押へて止みぬるに、無禮の事共なり。秀吉淸洲にて勢揃せんこそ望む所なれ。鳴海表にて一軍參るべし。然らずば東美濃に打出て土岐、遠山、惠奈三郡を切り取べし、とて鞭を指上げられ、此鷹一もとにて手配すべし、とて打笑はせ給へば、三人歸りて秀吉に斯くと申す。秀吉聞きて、さても大勇將かな。今夜思慮すべし、と言はれし時、丹羽長重進み出で、必ず軍は思召止り給へ。長重が士共刀の鞘袋を設けし故、子細を問ふに、鞘に三卷を拵へ、合戰の時は鞘袋を捨てて三河武者に紛れ、命を助るべき支度なり、と申しも果てぬに、蒲生氏鄕、堀秀政も、皆々士卒其心得に候。萬に一つも利候まじ、と言へば、秀吉、よしよし德川家を打破りて各に見せん物を、とて止みければ三人退出し、道にて、彼猿は死所無くて物に狂ふや、と私語きたり。翌日諸將を集め、三河を打滅さんは安けれども、智勇の大將なれば、吾日本を治むべき事を相談せん爲に緣を組み、妹を嫁して和平せん、とて又三人を遣れしかば、東照宮三ヶ條の誓文を御所望有り。秀吉許諾して和平に及ばせ給ひけり。四月秀吉の妹濱松に御座まして、後に京に登らせ給ふ可き旨を秀吉請ひて、秀吉の母の大政所を質とせられしかば、都に登らせ給ふ可きに定りけり。長臣共、是は危き事なり。然る可からざる由諫め申せども聞し召入れ給はず。其時申しけるは、和平又破れ秀吉攻來り候とも、素より鉾先の强きは言にや及び候べき。何十萬の大敵なりとも打負候まじ。强て思召止り給へ、と申しければ、東照宮聞し召し、諫むる旨尤理なり。然ども秀吉に畏れて行くには非ず。日本久しく兵亂にて四民安堵せず。此頃稍治りたるに復秀吉と弓箭を執らば、何時の世にかは靜謐せん。只疾く秀吉に對面して日本大平の基とせん。若し危難に及びなんには、萬民の命に替らんに何か惜かる可き、とて九月二十日濱松を御首途有りけるに定りければ、人々、二十日は四ヶの惡日とて千人出て一人も不㆑歸、と申し傳へ候。一日御延引然る可からん、と申す。東照宮、千人行きてこそ大事も有らめ。我今度一萬二千の軍兵を引具し上京す。此軍兵一人も生きて歸らずば吾爲の大吉事なり、とぞ仰せられける。井伊直政を御留守居とし、此度秀吉詐を構へ變に及ぶとも危からじ。尾張大納言信雄は必ず吾に告げ知せて味方たるべし。丹羽五郞左衞門は秀吉に恨有れば心を合せなん。其外吾に志を寄する人多し。去ども我も亦其備無からんや。秀吉不意に謀をなすならば、京都に火をかけ東寺に楯籠るべし。其時素より立て置きたる汝が組一萬を五百づつ二十に分ち、外に酒井榊原が今度京に上る供の外留置きたる兵一萬、是も二十に分ち、佐屋の渡を越え千種を押上るべし。若し大津にて支ふるならば、武田四郞が長篠にて懸りし如く切つて懸らば、上方武者一支も爲べからず。又瀨田の橋を焚きたらば宇治より攻め入るべし。新七、籠之介と云ふ角力取二人は宇治の案內者なれば召具すべし。斯の如くならば秀吉聚樂を退きて大坂に引取らん所を、東寺と淸水と兩方より挾みて打破らんに恐るゝに足らず。秀吉詐妄の謀を爲さば、吾天下を掌に握るべき兆なり、と仰せられ御出馬有り。秀吉と御對面事故なく歸らせ給ひけり。然れば危しとは知し召されけるが故に、萬民の命に替らんとの御詞、天地神明も感應して遂に國運を永世に開かせ給ひけるにこそ。