關ヶ原の時、三河岡崎の田中兵部大輔吉政の子民部少輔長胤は、父大坂方に同心したりと言ふを聞きて、宇都の小山を忍び出で、居城岡崎に歸りけるを國淸公聞し召し、竹村半兵衞を召され、吾吉田に歸る頃まで民部を牛窪に押へ留め置け、と仰せらる。竹村、是は安き事には候はね共、いかさま計ひて見候はん、とて道に出迎へ、鐵炮の者を百姓の家に隱し置き、具に支度を言含め、其身は山の峽に出でて待つ所に長胤來れり。竹村、池田三左衞門尉密に申せと申す事の候て是に出候、と言へば、長胤馬廻の人を遠ざけられしかば、竹村靜に步み寄り、別の子細も候はず。押留め申せと三左衞門下知したるよ、と云ひも敢ず、左の手にて長胤を犇と捕へ、一尺許の脇差を抽いて長胤に押當てたり。從者共、こは口惜や、と怒れ共詮方なし。竹村詞をかけ、近く寄られなば吾は殺さるゝとも民部殿をば刺貫き申さん。唯押留め申すのみにて別の事は候はず、と呼はりける處に、百姓の家に伏せ置きたる鐵炮の者共駈集り、鐵炮を長胤に差し當て、竹村を討たんとならば忽ち民部殿を打落し申さん、と聲々に呼はりけり。長胤力無く竹村に從ひて百姓の家に入れば、押止めて四方を堅く守りけり。斯くて東照宮聞し召し、父旣に味方に成れる上は許し候へ、と仰せられしかば、長胤則ち出でられけり。後に公に遭ひて、手荒き有樣にも會はせ給ひけるよ、と言はれしとかや。