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○岐阜城攻の事

卷之十二 第11話 · 段落 5 · NDL 1078984 212コマ L

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岐阜の城を攻むる軍評定の時、國淸公、大手に向はん、と仰せられけるに、福島左衞門大夫正則聞いて、吾こそ今度の先陣なれ、とぞ爭はれける。井伊、本多、公に向ひて、內府の御緣者なり。讓られ候へ、と有りければ、正則は尾越より西美濃に入りて大手に向ひ、公は河田の渡より寄せさせ給ふに定りけり。稍有りて正則、搦手へ吾こそ向ひ候はめ。尾越は城に遠く、河田は遠淺なれば馬にて涉り易かるべし。大手に向ふも城を早く攻破らん爲なれば、只搦手より寄せんものを、と申されけるを、井伊、本多、正則の領地なれば大手より船筏を以て渡されん事安かるべし。三左衞門尉は搦手より向はれ候へ。旣に定めつる上は今更變へんも然る可からず、と申されしかば、正則、扨は吾敵地に入りて相圖の煙を上げて後、池田殿川を渡されよ、と言ひて大手に向はれけり。頃は慶長五年八月二十一日の未だ宵暗きに、公は淸洲を打出で、河田の邊に陣して、明くれば二十二日の曉に川涯に押寄せ給へば、伊藤五郞右衞門と云ふもの瀨ぶみしけるといへり岐阜より津田藤三郞を始として新加納村に押出して陣したり。味方の軍兵勇み進んで早川に打入らん氣色なり。公馬を乘廻し、今暫ぞ、と下知せさせ給ふ。此時貝福右衞門、時は能かりぬ、と申せば、公、然るべし、と宣ひける。詞の下より逆卷く波に馬をさつと打入れ、二三間步ませ、鞍坪に落り下り、貝に川水を汲うて打うつし、如何にも高く吹き出す寶螺の聲諸陣に響き渡る。是より一同に打入りて一騎も殘らず向の岸に打上る。
須賀平四郞物見たりしが乘歸り、敵の多少は蘆原に隔たりて見え分かず候へ共、二三千にはよも過ぎ候はじ。軍は味方の勝と申す。子細は如何に、と問ひ給へば、須賀、敵の後陣續かず、後に兵を伏すべき地十町許が程に有る可しとも存ぜず。遙に駈け來りなば人馬の息切れて能き虜なるべし、と申しも果てぬに、伊木淸兵衞忠次、味方の旗は前に傾き陣の色黑みたり。敵は後に仰ぎて人の面白く候。必定味方の勝なり、と勇みけり。
公、味方の陣を整へよ。濫に進むな、と下知有りけれ共、などためらふべき、吾劣らじと進み行く事三町許。公、今は時こそよけれ、と腰に挿したる麾を取りて一振振らせ給へば、一同に㗢と打つて懸り、忽ち敵を擊破られけり。八田太郞兵衞久次、北ぐる敵を追駈けたる所に、朱色の物具著て紫の母衣懸けたる武者一人、息吐ぎ居たるを見て馳寄りたり。彼の武者は步立なるがひたと折り敷く。八田馬より飛下り鎗を合せ、遂に討取つたり。是前田半左衞門なり。
半左衞門は德善院の從子イ從弟にて、岐阜中納言秀信の近習の臣なり。打見たる處は勝れて溫柔にして、常によく論にたへたる人なりしかば、人々、男子に非ず、と笑ひしに、此日の軍に、敗軍の中に武市忠左衞門と二人踏止り、引立てたる味方を勵まし、續けや續け、と呼はりて、目を驚す働して武市も討死す。日比前田を侮りたる者共、今日前田に及ぶべき樣も無し、と言へり。八田は父を彌三右衞門正久といふ士大將なり。太郞兵衞今年十八歲、父の陣代たり。前田を討取りたりしに、從者柏原杢右衞門、尾關彌五左衞門駈け來りて、八田を馬に乘せて歸る。八田後に人に語りて曰く、我年若し、血氣弱きに非ず。敵一人討取りてさのみ疲るべきに非ざりしに、其時援け來る敵有らば、小兒にも生捕とせらるべし。死生の間に立ちて敵を討ち得て、却て勇氣の衰へたる故なるべし、とぞ語りける。慶長六年祿二千石を增與へられ、同八年公參議に任じ、參內の時久次太刀の役たり。從五位下に敍し丹後守と稱す。後豐後守と改む。前田利長、久次が武名を聞き、一萬石にて招かれしかども行かざりしとなり。
福島正則は大手の惣大將にて、素より他人に超えられじと思はれしに、公旣に新加納にて敵を擊破りたりと聞き、怒り悶へて二十三日の朝先陣して攻寄せたり。池田家の軍兵朝日口より攻入りけるを、惣構の土手の上より見て人の功名を嫉み、道全と言へる法師武者に下知して町口に火を懸けさせたれば、搦手の軍兵烟に咽びて進み得ず。公是を御覽じて、こは心得ぬ仕業なり。火の消ゆるを待つべきにや、とて桑木畑を廻り、長良川より後の水の手に押寄せ給ふ。池田吉左衞門は、公此城に御座せし時水門に居て、案內は能く知りつ、水拔の有りけるより入りて水門を打破り旗を差上げ、池田三左衞門尉本城の一番乘と呼はりけり。正則の道を妨げられしは、却て池田家の幸なり、と後に人いへり。東照宮御書を賜り、敵軍川を隔てて相支ふる所に輙く打破り、岐阜を攻落されし功名賞するに詞なし、とぞ書せ給ひける。